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神の愛と知恵 398

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398 さて、愛と知恵は、ここから意志と理解力は、霊魂と呼ばれるものであり、どのように霊魂が身体の中で働くか、またそのすべてのものを生み出すか、続きの中で述べなければなりません。このことが意志と心臓の対応、理解力と肺の対応から知ることができるので、それゆえ、それらの対応によって次のものが明らかにされます——

 (1)愛または意志は、人間のいのちそのものである。
 (2)愛または意志は、人間の形の中へ、また人間の形であるすべてのものの中へ絶えず向かっている。
 (3)愛または意志は、知恵または理解力との結婚がなくては、その人間の形によって何もすることができない。
 (4)愛または意志は、知恵または理解力である来るべき配偶者のために家または部屋を準備する。
 (5)愛または意志もまた、知恵または理解力と結合して働くことができるために、すべてのものをその人間的な形の中に準備する。
 (6)結婚が行なわれたとき、知ろうとする情愛を通して最初の結合があり、そこから真理の情愛がある。
 (7)理解しようとする情愛を通して第二の結合があり、そこから真理の知覚がある。
 (8)真理を見ようとする情愛を通して第三の結合があり、そこから思考がある。
 (9)愛または意志は、これらの三つの結合を通して、その感覚的ないのち中に、その活動的ないのちの中にある。
 (10)愛または意志は、知恵または理解力を自分の家のすべてのものの中へ導き入れる。
 (11)愛または意志は、知恵または理解力との結合の中にないなら、何も行なわない。
 (12)愛または意志は、それ自体を知恵または理解力に結合させ、そして知恵または理解力が相互に結合されるようにする。
 (13)知恵または理解力は、それ自体に与えられた能力から愛または意志により高揚され、そして天界からの光に属するものを受け、そしてそれらを知覚することができる。
 (14)愛または意志も、その配偶者をその段階の中で愛するなら、同様に高揚され、そして天界からの熱のものを知覚することができる。
 (15)そうでなければ、愛または意志は、それ自体と一つとして働くように、知恵または理解力をその高揚から引き戻す。
 (16)愛または意志は、1諸に高揚されるなら、理解力の中で知恵により清められる。
 (17)愛または意志は、1諸に高揚されるないなら、理解力の中で、また理解力から汚される。
 (18)理解力の中で知恵により清められた愛は、霊的に、また天的になる。
 (19)理解力の中で、また理解力により汚された愛は、自然的に、また感覚的になる。
 (20)それでも、理性と呼ばれる理解する能力と自由と呼ばれる行動する能力は残る。
 (21)霊的な愛と天的な愛は、隣人に対する愛と主への愛である。自然的な愛と感覚的な愛は、世俗愛と自己愛である。
 (22)仁愛と信仰は、またそれらの結合は、意志と理解力と、またこれらの結合と同様である。