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神の愛と知恵 422

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422 (18) 理解力の中で知恵により清められた愛は、霊的に、また天的になる
 人間は自然的に生まれていますが、天界の光の中へ理解力が高揚し、愛を1諸に天界の光の中へ高揚させるのにしたがって、霊的に、また天的になります。そのとき、春の光の中と同時に春の熱の中にあるエデンの園のようになります。
 理解力が、霊的に、また天的になるのではなく、愛がなります。愛がなる時、自分の配偶者である理解力もまた霊的に、また天的にするのです。愛は、理解力が教え、示す知恵の真理にしたがった生活から霊的に、また天的になります——愛は自分自身にそれを理解力によって学ぶのであり、自分自身からではありません。なぜなら、愛は、真理を知らないなら、自分自身を高揚させることができず、この真理は高揚されて、照らされた理解力によらないなら知ることができないからです。またその時、その真理を行なうことによって真理を愛すれば愛するほど、それだけ高揚されます——なぜなら、理解することと意志することは、すなわち、話すことと行なうことは別ものであるからです。
 知恵の真理を理解し、話しますが、しかしそれでも、それを欲せず、行なわない者がいます——このように、理解し、話す光の真理は、愛がそれを行なう時、高揚されるのです。このようであることを、人間は理性だけから見ることができます。知恵の真理を理解し、話す時に、それに反して生活する、すなわち、その時、それに反して欲し、行なう人間とは何なのでしょうか? 
 知恵により浄化された愛は霊的に、また天的になることは、人間に自然的、霊的、天的と呼ばれるいのち(生活)の三つの段階があり、人間は一つの段階から他の段階へと高揚されることができるからです。それらについて本書の「第三部」にあります——しかし、知恵だけによるのではなく、それにしたがった生活によって高揚されます、人間の生活(いのち)は彼の愛であるからです。それゆえ、知恵にしたがって生活すればするほど、それだけその知恵を愛します。それゆえ、自分自身を罪である汚れから清めれば清めるほど、このことを行なえば行なうほど、それだけ知恵にしたがって生活し、それだけ知恵を愛します。