カテゴリー

神の愛と知恵 419

418◀︎目次▶︎420

419 (16) 愛または意志は、1諸に高揚されるなら、理解力の中で清められる
 人間は出生から自分と世以外に愛しません。なぜなら、彼の目の前に他のものは見られず、またここから彼の心の中に他のものは存在しないからです。またこの愛は身体的な自然的なものであり、物質的なものと呼ばれることができます。さらに、その愛は両親のもとの愛により天界の愛から分離されることによって不純なものにされます。
 この愛は、人間に理解力を天界の光の中へ高揚させる能力があり、その愛が理解力と1諸に知恵の中に高揚されることができ、そしてどのように生きるべきか知ることができないなら、自分の不純から分離されることはできません。
 理解力によって、愛は、すなわち、人間は、愛を不潔にし、汚す悪が何であるかを見ます。その愛を罪として避け、退けるなら、その悪に反するものである天界的なものすべてを愛することもまた見ます——なおまた、その悪を罪として避け、退けることができる手段も見ます。このことを愛は、すなわち、人間は、自分の理解力を知恵のもととなる天界の光の中へ高揚させる能力の使用によって見ます。
 愛が天界を第一の位置に置き、世を第二の位置に置き、同時に主を第一の位置に置き、自分自身を第二の位置に置く時、それだけ愛は自分の不潔なものから浄化され、清められます。すなわち、それだけ天界の熱の中に高揚され、理解力が含まれる天界の光に結合され、善と真理の結婚が、すなわち、愛と知恵の結婚と呼ばれる結婚が行なわれます。
 だれかが盗みと欺瞞を避け、退ければ退けるほど、それだけ誠実、正直、公正を愛し、さらにだれかが復讐と憎しみを避け、退ければ退けるほど、それだけ隣人を愛し、例えばまた、だれかが姦淫を避け、退ければ退けるほど、それだけ貞潔を愛すること、またその他のことを、だれもが理解力で知り、理性的に見ることができます。それどころか、誠実、正直、個性、隣人に対する愛、貞潔の中に、また天界の愛への他の情愛の中に、天界のものである何かが、主のものである何かがあることを、それらの反するものを追い払うよりも前には、ほとんど何も知りません。
 反するものを追い払う時、それらの情愛の中にいて、それらから知り、それらことを見ます。その間、割り込むおおいのようなものがあり、それは天界の光を愛にまで通過させますが、配偶者である知恵をその段階の中で愛さないので、その光を受けません、それどころか、おそらく、その知恵が高揚から戻る時、非難し、叱責します。それでも、自分の理解力の知恵は、名誉、称賛、または利益に手段として役立つことができる、と誘惑されています。しかし、その時、自分自身と世を第一の位置に、主と天界を第二の位置に置いています。第二の位置に置かれるものは、どれだけ仕えるかによって、それだけ愛され、仕えないなら、放棄され、追い払われます。もし死の前でないなら、死後にそうなります。
 そこでこれらから、愛または意志は、1諸に高揚されるなら、理解力の中で清められる、という真理が明らかです。