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神の愛と知恵 363

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363 (1) 愛と知恵は、ここから意志と理解力は、人間のいのちそのものをつくる
 いのちとは何か、ほとんど知らない者がいます。それについて考えるとき、ある種の飛び去るもののように思え、その観念は与えられません。このように思えるのは、神おひとりがいのちであり、その方のいのちが神的な愛と神的な知恵であることが知られていないからです。ここから、人間のもとのいのちは愛と知恵に他ならないこと、それらを受ける段階の中で彼のもとのいのちであることが明らかです。
 太陽から熱と光が発出し、全世界のすべてのものはそれらを受け入れるものであり、受け入れる段階の中で、温かくなり、輝くことは、よく知られています——このようにまた、「第二部」の中で示されたように、そこに主のいる太陽から発出する熱が愛であり、発出する光が知恵です。そこで、太陽としての主から発出するこれら二つのものから、いのちが存在します。
 主からの愛と知恵がいのちであることは、人間から愛が去るほど、その人間は不活発になり、また知恵が去るほど、無感覚になり、まったく去ってしまうなら、そのいのちは消えてしまうことからもまた明らかにすることができます。
 愛に属する多くのものがあり、それらは派生物であるので、情愛、切望、欲望、それらの快楽や楽しみのような名前を割り当てられています——また、知覚、考慮、想起、思考、物事への意図のように、知恵に属する多くのものがあります——愛と知恵の両方に属する多くのものがあります、例えば、同意、推理、また行動への決定、その他です——確かに、これらすべてのものは両方に属するのものですが、より勢いがあるか、より近いことから名前が付けられています。
 これら二つの最外部のものから、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の諸感覚が、それらの楽しさと快さとともに導かれます。目が見ることは外観からであって、理解力が目を通して見るのであり、それゆえ、見ることは理解力について言われます。耳が聞くことは外観であって、理解力が耳を通して聞くのであり、それゆえ、聞くことは注意と傾聴について言われ、それは理解力に属するものです。鼻がかぐこと、舌が味わうことは外観であって、理解力がその知覚からかぎ、味わうのであり、それゆえ、知覚について、かぐことと味わうことが言われます、等々。
 それらのすべてのものの源泉は愛と知恵です——このことから、これら二つのものが人間のいのちをつくることが明らかです。