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神の愛と知恵 425

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425 (20) それでも、理性と呼ばれる理解する能力と自由と呼ばれる行動する能力は残る
 人間にあるこれらの二つの能力については、前に扱いました(264―267番)。
 それら二つの能力は、自然的なものから霊的なものになることができるように、再生できるように、人間にあります。なぜなら、前に言われたように、霊的になるもの、再生するものは人間の愛であり、何が悪で何が善か、ここから何が真理で何が虚偽か理解力によって知ることがないなら、霊的になること、すなわち、再生されることはできないからです——これらを知るとき、一方またはもう一方を選ぶことができます。善を選ぶなら、その理解力によって手段について教えられ、その手段よって善にやって来ることができます。
 人間は善にやって来ることのできるすべての手段を備えられています。
 「推理力から」それらの手段を知り、理解します。「自由から」それらを意志し、行ないます。さらにまた、自由は、それらを知り、理解し、考えることを意志することです。
 「霊的なものまたは神学は理解力を超えている、それゆえ、理解しようとしないで信じなければならない」という教会の教えから信じる者は、推理力と自由と呼ばれるこれらの能力について何も知りません。これらの者は推理力と呼ばれる能力を否定することしかできません。そして、教会の教えから、だれも自分自身から善を行なうことはできません、それゆえ、「救いのための何らかの望みから善を行なってはならない」と信じる者は、この宗教の原理から、人間にある両方の能力を否定することしかできません。それゆえ、自分自身にそれらを確信した者は、死後、自分の信念にしたがって両方のものを剥奪され、天界の自由の中にいることができたであろうことに代わって地獄の自由の中に、推理力から天使の知恵の中にいることができたであろうことに代わって地獄の狂気の中にいます。
 また、驚くべきことですが、悪を行なう自由は隷属であり、虚偽を考える理性は理性ではないことを知らないで、両方のこれら能力が、悪を行なうことの中に、そして虚偽を考えることの中に存在すること認めています。
 しかし、自由と推理力という二つの能力は、人間にあるのではなく、人間のもとの主のものであること、人間のもののように所有物とされることができないこと、なおまた、彼のもののように存在することができないで、常に彼のもとの主のものであること、それでも、決して人間から取り去られないことは、よく知っておかなければなりません——その理由は、人間はそれらがなくて救われることができないから、なぜなら、前に言われたように、それらなしに再生されることができないからです。それゆえ、教会から、自分自身から真理を考えることができず、善も自分自身から行なうことができないことが教えられます。
 しかし、人間は、自分自身から真理を考え、自分自身から善を行なう、としか知覚しないので、自分自身からかのように真理を考え、自分自身からかのように善を行なう、と信じなければならないことはきわめて明らかです——なぜなら、このことを信じないなら、その時、真理を考えず、善も行なわず、こうして彼に宗教は何もないか、あるいは自分自身から真理を考え、善を行なうと思い、その時、神性を自分自身に帰してしまうからです。
 人間が真理を考えることと善を行なうことを自分自身からかのようにしなくてはならないことは、『新しいエルサレムのための教え 生活について』の最初から最後までに見られます。