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神の愛と知恵 335

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335 人間を通して主に関係するので役立ちであると言われても、それでも役立ちは人間による主のためのものであると言われることはできず、すべての役立ちは主の中で無限に一つであり、また主からでないなら人間の中に何もないので、というのは、役立ちと呼ばれるものは善であり、主からでないなら人間は自分自身から善を行なうことができないからであり、主による人間のためのものです。
霊的な愛の本質は他の者に善を、自分自身のためでなく、他の者のために行なうことであり、神的な愛の本質はこのことがをさらに無限に行ないます。このことは子供に対して、自分自身のためでなく、彼らのために、善を行なう両親の愛と似ており、幼児に対する母の愛の中にはっきりと見られます。
主は崇拝し、礼拝し、賛美すべきであるので、主は、崇拝、礼拝、賛美をご自分のために愛する、と信じられています。しかし、主はそれらを、人間がそうすることによって、主が流入し、受け入れられることができるような状態にやって来るので、人間のために愛します。なぜなら、そのことによって人間は〔主の〕流入と受容を妨げるプロプリウムを遠ざけるからです——というのは、プロプリウムは心を固くし、閉ざす自己愛であるから。これは、自分自身からは悪しか行なわず、善は主からでしか行なわれないことを承認することによって遠ざけられます。ここから、心の軟化と卑下があり、そこから崇拝と礼拝が生じます。
これらから、主がご自分に人間を通して実行される役立ちは、その人間が愛から善を行なうためであることがいえます。そのことが主の愛であるので、受け入れることは主の愛を楽しむことです。
そこで、だれも、主は単にご自分を崇拝する者のもとにおられると信じてはなりません、主の命令を、このように役立ちを行なう者のもとにおられ、後者のもとに住まわれますが、前者のもとには住まわれません。(これらについては前の47-49番にもまた述べられていることが見られます)