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神の愛と知恵 427

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427 (22) 仁愛と信仰は、またそれらの結合は、意志と理解力と、またこれらの結合と同様である
 天的な愛と霊的な愛の二つの愛があり、それらにしたがって天界は区別されます——天的な愛は主への愛であり、霊的な愛は隣人に対する愛です。
 これらの愛は、天的な愛は善への愛であること、霊的な愛は真理への愛であることによって区別されます。というのは、天的な愛の中にいる者は善への愛から役立ちを行ない、霊的な愛の中にいる者は真理への愛から役立ちを行なうからです。
 天的な愛は知恵と結婚し、霊的な愛は理解力と結婚します。というのは、善から善を行なうことは知恵のものであり、真理から善を行なうことは理解力のものであるから。それゆえ、天的な愛は善を行ない、霊的な愛は真理を行ないます。
 これら二つの間の相違は、次のことよってでしか記述されることができません。天的な愛の中にいる者は、記憶でなく、自分のいのち(生活)に刻み込まれた知恵をもっています。それが、神的な真理について話さないで、それらを行なうことの理由です。しかし、霊的な愛の中にいる者は、自分の記憶に刻み込まれた知恵をもっています。それゆえ、神的な真理について記憶の中の原理から話し、そして、それらを行ないます。天的な愛の中にいる者は、自分のいのち(生活)に刻み込まれた知恵をもっているので、それゆえ、どんなことでも聞くと、直ちに、真理であるか、あるいはないか知覚します。真理かどうか質問されるとき、ただ、「そうである」、あるいは「そうではない」と答えます。
 これらの者が、次の主のことばによって意味される者です、

あなたがたのことばは、そうです、そうです、いいえ、いいえ、でありなさい(マタイ5・37)。

 またこのようであるので、「信仰とは何か? 知恵ではないのか? 仁愛とは何か? 行なうことではないのか?」と言って、信仰について何らかのものを聞こうとしません。また彼らは、自分たちに、信仰とは理解されないことを信じることである、と言われるとき、「この者は気が狂っている」と言って、身を背けます。
 これらの者は第三の天界の中にいて、すべてに最も知恵があります。彼らは世で、神的なものを聞くと直ちに生活に当てはめ、悪を地獄のもののように追い払い、主だけを崇拝して、このようなものを獲得したのです。これらの者は無垢の中にいるので、他の者には幼児のように見えます。知恵の真理については何も話さず、彼らの談話の中に高慢からものは何も内在しないので、単純な者にも見えます。しかし、それでもだれかの話を聞く時、音声から彼の愛のすべてのものを、話し方から彼の知性のすべてのものを知覚します。
 これらの者は主から愛と知恵の結婚の中にいます。彼らは天界の心臓に対応していますが、そのことについては前に述べました。