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神の愛と知恵 404

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404 (6) 結婚が行なわれたとき、知ろうとする情愛を通して最初の結合があり、そこから真理の情愛がある
 結婚によって、無知の状態から理解力をもつ状態まで、ここから知恵の状態へいたる出産後の人間の状態が意味されます。
 無知だけの状態である最初の状態は結婚によって意味されません。その時、理解力からの思考は何もなく、不明瞭な情愛だけがあるからです。情愛は愛に、すなわち、意志に属します。この状態は結婚への初期段階です。
 第二の段階である人間に少年期に、知ろうとする情愛があることはよく知られています。この情愛によって、少年、幼児は話すことを学び、読むことを学びます、その後、引き続いて理解力に属するようなものを学びます。意志に属する愛が働きかけることは、疑いを呼ぶはずがありえません。なぜなら、愛が、すなわち、意志がそれを行なわないなら、生じないからです。
 知ろうとする情愛がそれぞれの人間に出生後にあり、その情愛によってこのようなものを学び、それらから理解力が徐々に形成され、成長し、完成されることは、だれもが、経験に思い巡らす時、理性から認めます。真理への情愛はここからであることもまた明らかです。なぜなら、人間が知ろうとする情愛から知的になったとき、このように知ろうとすることへの情愛へは導かれず、彼の愛に属するもの、例えば、経済、あるいは社会問題、あるいは道徳を考えようとする情愛へ、このようなものを推論しようとする情愛へ導かれるからです。
 この情愛が霊的なものにまで高揚されるとき、それは霊的な真理への情愛になります。その最初のもの、すなわち、初期段階が知ろうとする情愛であったことは、真理への情愛が知ろうとする情愛の高揚されたものであることから知ることができます。なぜなら、真理に感動させられることは、情愛から真理を知ることを欲し、またそれを見つけたとき、情愛の快さからそれを吸収することであるからです。
 (7) 理解しようとする情愛を通して第二の結合があり、そこから真理の知覚がある
 このことは理性的な熟慮から調べることを欲する者のだれにも明らかです。
 理性的な熟慮から、真理への情愛と真理の知覚は理解力の二つの能力であることが明らかであり、それらはある者のもとで一つとなっており、ある者のもとでは一つとなっていません——一つとなっている者は理解力で真理を知覚することを欲し、一つとなっていない者は単に真理を知ることを欲します。
 さらにまた、だれもが、どれだけ理解しようとする情愛の中にいるかによって、それだけ真理の知覚の中にいることが明らかです——というのは、真理を知ろうとする情愛を取り去ってみなさい、すると真理の知覚は何もなくなるからです。しかし、真理を知ろうとする情愛を与えなさい、するとその情愛の段階にしたがってその知覚があります。なぜなら、健全な理性をもつ人間に、真理を知ろうとする情愛があるかぎり、決して真理の知覚は欠けていないからです。
 それぞれの人間に推理力と呼ばれる真理を理解する能力があることは、前に示されています。                   
 (8) 真理を見ようとする情愛を通して第三の結合があり、そこから思考がある
 知ろうとする情愛、理解しようとする情愛、真理を見ようとする情愛は別のものであること——すなわち、真理の情愛、真理の知覚、思考が別のものであること——これは、心の働きを区別して知覚することができない者のもとでは、あいまいにしか明らかとなりませんが、区別して知覚することができる者のもとでは、はっきりと明らかです。
 心の働きを区別して知覚することができない者のもとで、このことがあいまいにしか明らかとならないことは、真理への情愛の中と真理の知覚の中にいる者のもとでは、心の働きが思考の中に同時にあり、同時にあるとき区別されることができないからです。
 人間は、身体の中の彼の霊が考えるとき、これは特に他の者と交わっている時に生じますが、明らかな思考の中にいます。しかし、理解しようとする情愛の中にいるとき、これを通して真理の知覚の中にやって来る時、熟考である自分自身の霊の思考の中におり、それは確かに身体の思考の中に落ち込みますが、沈黙の思考の中へです。というのは、霊の思考は上にあって、記憶からの思考である身体の思考を、自分の下にあるかのように熟視していて、それらから結論へと導くか、あるいは確信させるからです。
 しかし、真理の情愛そのものは、何らかの快さからの意志の努力のようなものとしか認められず、それはそのいのちのように瞑想の中に内部にあって、それへはほとんど注意が向けられません。
 そこでこれらから、真理への情愛、真理の知覚、思考の三つのものは、愛から秩序をもって続き、理解力の中にしか存在するようにならないことを明らかにすることができます。というのは、愛が理解力の中に入るとき、それは結合が行なわれるとき生じますが、その時、最初に真理の情愛を生み出し、その後、知ったものを理解しようとする情愛を生み出し、最後に、理解したものを身体の思考の中で見ようとする情愛を生み出します、思考は内なる視覚以外の何ものでもないからです。
 確かに、思考が、自然的な心のものであるので、最初に存在するようになります、しかし、真理への情愛からのものである真理の知覚からの思考が、最後に存在するようになり、この後の思考は知恵の思考ですが、前の思考は自然的な心の視覚による記憶からの思考です。
 理解力の外で、愛すなわち意志のすべての働きは、真理の情愛に関係しないで、善の情愛に関係します。