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神の愛と知恵 46

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46 これらから、自然はそれ自体から存在すると言う者は、どれほど感覚的に、すなわち、身体の感覚から、また彼らの霊的なものにおける暗やみから考えているか、明らかにすることができます。
 彼らは目から考え、理解力から考えることができません。
 目からの思考は理解力を閉ざします、しかし、理解力からの思考は目を開きます。
 彼らはエッセとエキシステレについて本質的に、また、永遠、創造されたのではないもの、無限である何らかのものについて考えることができません。いのちについても、無へと分解してしまう飛び去りやすいものとしてでないなら、何らかのものを考えることができません。愛と知恵についてもこれと異ならず、自然のすべてのものは愛と知恵からのものであることをまったく考えることができません。
 自然のすべてのものが愛と知恵から存在することも、自然が役立ちから、その系列の中とその順序の中で眺められないなら、彼らから見られることができません、目の対象であるその役立ちの単なる形の何らかのものだけから眺めるなら、やはり見られることはできません。というのは、役立ちは生活からでないなら存在せず、それらの系列と順序は知恵と愛からのものであるからです。しかし、形は役立ちの容器です——それゆえ、もし形だけが眺められるなら、自然の中に、いのちの何らかのものは、まして愛と知恵の何らかのもの、したがって神の何らかのものは見られることができません。