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神の愛と知恵 41

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41 しかし、このことは外観に反しているので、証明されないなら信頼に値しないように見られてしまい、このことは人間が自分の身体の感覚から知覚することができるようなものによってしか証明されることができません。それゆえ、それらによって証明します。
 人間に触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚と呼ばれる五つの外なる感覚があります。
 触覚の主体は皮膚であり、人間はそれに囲まれています。皮膚の主体と形そのものは、接触したものを感じるようにします——触覚の感覚は、接触されるものの中になく、主体である皮膚の実体と形の中にあります。その感覚は単に接触したものから働きかけられたその状態です。
 味覚も同様です——この感覚は単に舌である実体と形が働きかけられた状態であり、舌が主体です。
 嗅覚も同様です——においは鼻と鼻の中にあるものに働きかけ、そしてにおいは、においを放つものに触れて、それらから働きかけられたものであることはよく知られています。
 聴覚も同様です——聴覚は音が始まる場所にあるように思えますが、聴覚は耳の中にあり、その実体と形が働きかけられたものです。聴覚が耳から隔たったものの中にあることは外観です。
 視覚も同様です——人間が隔たった対象をそこに視覚があるかのように見る時、それでもそれは主体である目の中にあり、同様に働きかけられたものです——距離は単に空間について中間のものから、あるいは対象の縮小とそこからのぼやけから結論づけられた判断からであって、その像は入射角にしたがって目の中の内部につくられています。
 ここから、視覚は目から対象へ出て行くものではなく、対象の像が目に入ってきて、その実体と形に働きかけることが明らかです——というのは、視覚は聴覚と同様であるから。聴覚も音を捕らえるために耳から出ないで、音が耳に入り、働きかけます。
 これらから、実体と形に働きかけることは、感覚を生じること、〔そしてそれは〕主体から分離したものではなく、単にその中に変化を生み、その時、実体は実体のまま、最初のように、またその後も残っていることを明らかにすることができます。
 ここから、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚は、その器官から何か飛んで流れるものではなく、その中に実体と形が見られる器官であり、それは働きかけられるとき感覚を生じる、といえます。