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神の愛と知恵 253

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253 (3) 霊的な段階が開かれていないが、それでも閉ざされていない自然的な人間はどんなものであるか
 霊的な段階が開かれていないが、それでも閉ざされていない者は、何らかの仁愛の生活を送ったけれども、ほとんど純粋な真理を知らなかった者です。
 その理由は、霊的な段階が愛と知恵の結合、すなわち熱と光の結合によって開かれるからです——霊的な愛または熱だけで、知恵またはただ光だけでも霊的な段階は開かれませんが、両方が結合されて開かれます。それゆえ、知恵、すなわち、光のもとである純粋な真理が知られないなら、愛はその段階を開くことができないで、単に開かれることができるような可能性を保つだけです。閉ざされていないことによって、このことが意味されます。
 このことは、熱だけでは種や木に植物の生長を与えませんが、光と結合した熱がそのことを遂行する植物界と同様に行なわれます。すべての真理は霊的な光に属し、すべての善は霊的な熱に属すること、また善は真理によって霊的な段階を開くことを知らなくてはなりません。なぜなら、善は真理によって役立ちを遂行し、そして役立ちは愛の善であり、その本質を善と真理の結合から得るからです。
 霊的な段階が開かれていないが、それでも閉ざされていない者の運命は、死後、やはり自然的であり、霊的でないので、最も低い天界の中にいて、そこでときどき厳さを被ります。あるいは何らかの高い天界の辺境に、そこのいわば夕方の光の中にいます。なぜなら、前に言われたように、天界やそれぞれの社会の中で、そこの光は中央から辺境へと減少し、中央にいる者は他の者にまさって神的な真理の中に、そしてわずかな真理の中にいる者は辺境にいるからです——そして、わずかな真理の中にいる者は、神が存在し、主が自分たちのために苦しまれたこと、なおまた仁愛と信仰は教会の本質であることを宗教から知る以上には知らず、また信仰とは何か、仁愛とは何か知るために励まなかったからです。そのときそれでも、信仰はその本質では真理であり、真理は多種多様であり、仁愛は人間が主から行なう職務のすべての働きであって、それを悪を罪として避けるとき、主から行なうのです。
 まさに前に言われたように、目的は原因のすべてであり、結果は原因を通して目的のすべてです——目的は仁愛または善であり、原因は信仰または真理であり、そして結果は善の働きまたは役立ちです。
 これらから、仁愛が信仰と呼ばれる真理に結合されているよりも多くの働きをなすことが明らかです。
 仁愛はこれらの真理によって働き、またその働きの性質を得ます。