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神の愛と知恵 373

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373 意志と理解力は愛と知恵の容器であるので、それゆえ、それら二つは有機体の形、すなわち、有機的にまとめられた最も純粋な実体からの形です。というのは、容器であるためには、このようなものでなければならないからです。
それらの組織が目の前に明らかでないことは妨げとなりません、顕微鏡によって高められた視覚の内になら入ってきます。視覚の内にある最小の昆虫の中にもまた感覚器官と運動器官があります。感じ、そして歩き、飛ぶからです——それらに脳、心臓、肺の気管、内臓もまたあることが、鋭い洞察力をもつ者により、顕微鏡を通して彼らの解剖から示されています。
小さい昆虫そのものが、ましてそれらの内臓が視覚の前に明らかでなくても、それらが個々のものまで有機的にまとめられていることが否定されないとき、どうして、意志と理解力と呼ばれる愛と知恵の二つの容器が有機体の形をしていない、と言うことができますか? 主からのいのちである愛と知恵は、主体でないものの中へ、または実体的に存在するようになっていない何らかのものの中に、どのように働きかけることできますか? そうでなければ、思考はどのように定着することができ、だれが定着していない思考から話すことができますか? 思考が存在するようになる脳は、完全であって、そこにはそれぞれのものが有機的にまとめられていませんか? そこには有機的な形そのものが肉眼にも、皮質の中に、源の中に意志と理解力の容器が、はっきりと小さい腺のように見られます。それらの事柄については前に見られます(366番)。
どうか、これらについてあなたは真空の観念から考えないようにしてください。真空は無であり、無の中で何も行なわず、また無から何も存在するようになりません。(真空の観念については前の82番に見られます)