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神の愛と知恵 416

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416 (15) そうでなければ、愛または意志は、それ自体と一つとして働くように、知恵または理解力をその高揚から引き戻す
自然的な愛があり、霊的な愛があります。霊的な愛と同時に霊的な愛の中にいる者は理性的な人間です。しかし、まったく霊的な人間のように理性的に考えることができても、自然的な愛だけの中にいる者は理性的な人間ではありません。というのは、自分の理解力を天界の光にまでしたがって知恵にまで高揚させても、それでも、知恵に属するもの、すなわち、天界の光に属するものは、彼の愛に属するものではないから。確かに彼の愛がこのことを行ないますが、名誉、称賛、利益への情愛からです。けれども、その高揚からこのようなものを受けないことを知覚するとき、それは自分の自然的な愛から自分自身について考える時に生じますが、その時、それら天界の光に属するもの、すなわち、知恵に属するものを愛しません。それゆえ、その時、愛と一つとして働くように、理解力をその高所から引き戻します。
例として、理解力が高揚から知恵の中にある時、愛は、何が公正か、何が誠実か、何が貞潔か、それどころか、何が純粋な愛かを見ます。自然的な愛はこのことを、天界の光の中で、理解しようとし、熟考しようとする自分の能力によって見ることができ、それどころか、それらを道徳的で同時に霊的な美徳として、話し、語り、述べることができます。
しかし、理解力が高揚の中にない時、愛が単に自然的なものであるなら、その愛はそれらの美徳を見ないで、公正に代わって不正を、誠実に代わって欺瞞を、貞潔に代わって好色を、そうしたものなどを見ます。その時、自分の理解力が高揚の中にあったときに話したそれらのことについて考えるなら、それらを嘲笑し、それらは自分には人々の心を捕えるために役に立つだけのものである、と考えます。
これらから、愛は配偶者である知恵をその段階の中で愛さないなら、愛と一つとして働くように、その高揚から引き戻すことを、どのように理解しなくてはならないか明らかにすることができます。
愛が、知恵を愛するなら、その段階の中で高揚されることができることは前に見られます(414番)。