カテゴリー

神の愛と知恵 266

265◀︎目次▶︎267

266 (1) 善い人間と等しく、悪い人間にも、それらの二つの能力が授けられている
自然的な心が、理解力に関して、第三の天界の天使がいる光にまで高揚され、真理を見て、認め、またその後、それらを話すことができることは、前章の中で示されました。
そのことから、自然的な心は、このように高揚されることができるので、悪い人間は善い人間と等しく、推理力と呼ばれる能力を授けられていることが明らかです——自然的な心はそれほどに高揚されることができるので、それらを考え、話すこともできます。
けれども、それらを欲し、行なうことができるのに、それでも欲せず、行なわないことが、理性と経験から証明されます。
理性から——だれが考えるものを欲し、行なうことができませんか? しかし、欲せず、行なわないことは、それらを欲し、行なうことを愛さないことです。欲することと行なうことが自由であることは、主からそれぞれの人間にありますが、できるときに、善を欲せず、行なわないのは、〔それに〕反感を抱く悪の愛からです。それでもその愛に抵抗でき、多くの者も抵抗しています。
経験から——このことは数回、霊界で確認されました。
私は、内部で悪魔であり、世で天界と教会の真理を退けた悪い霊から聞いたことがあります——彼らは、知る情愛にいて、その中にすべての人間は少年期からいますが、それぞれ者の愛が火の輝きのように囲む称賛によってかきたてられた時、彼らは天使の知恵のアルカナ(秘義)を知覚し、内部で天使であった善い霊と等しくほど、それらをよく知覚しました。それどころか、悪魔的な霊であった彼らは、「確かにそれらにしたがって欲し、行なうことができるが、欲しない」と言いました。彼らに、「ただ悪を罪として避けるなら、それらを欲するであろう」と言われたとき、彼らは、「そのこともまた可能であるが、欲しない」と言いました。
そのことから、善い者と等しく悪い者に自由と呼ばれる能力があることが明らかです——だれでも、自分自身を思いめぐらすなら、そのようであることを認めるでしょう。
人間が欲することができるのは、主からその能力があり、主が絶えずできるようにと与えられているからです。なぜなら、前に述べたように、主はそれぞれの人間のもとのそれら二つの能力の中に、このように欲することができることの能力の中に、すなわち、力の中に住まわれるからです。
推理力と呼ばれる理解する能力は、人間の自然的な心がその適当な年齢にやって来るより前に、彼のもとに存在しません。それまでは、未熟な果実の中の種のようであり、それは地の中で開かれ、灌木に生長することができません。
それらの能力は、前に述べた者(259番)のもとにも存在しません。