カテゴリー

神の愛と知恵 11

010◀︎目次▶︎012

神は人間そのものであられる

11 すべての天界の中に、「神は人間である」という観念以外の他の観念はありません。その理由は、天界は全体でもまた部分でも、形では人間のようであり、天使のもとにある神性が天界をつくり、思考は天界の形にしたがって進み、それゆえ、天使に神についてこれと異なって考えることは不可能であるからです。ここから、世にいながらも天界と結合しているすべての者は、自分自身の内部で、自分自身の霊の中にいるとき、神について同様に考えています。
神は人間であることから、すべての天使と霊たちは完全な形をした人間です。このことは天界の形によってなされ、その形は最大のものの中で、また最小のもの中でそれ自体に似ています(天界の形は全体でも、また部分でも人間のようであることは、著作『天界と地獄』59番から87番に見られます。また思考は天界の形にしたがって進むことは203、204番)。
人間は神の映像に、また似姿に、創造されていることは、「創世記」(1:26, 27)から知られます。なおまた、神は、アブラハムや他の者から人間として見られました。
古代人は、賢明な者から単純な者にまでも、神について人間としてしか考えませんでした。また最後に、アテネやローマのように、多くの神々を礼拝し始めたとき、すべての神を人間として礼拝しました。 これらのことは、前に出版された小著の中の次のものによって説明されます——
異邦人、特にアフリカ人は全世界創造のひとりの神を認め、礼拝し、神について人間であるという観念を抱いている。彼らは、「だれも神について他の観念を抱くことはできない」と言う。「多くの者が神について(全世界の)真ん中の雲のようなものであるという観念を抱いている」と聞くとき、彼らは、「〔その者たちは〕どこにいるのか」と尋ねる。「キリスト教徒たちの間にいる」と言うと、「ありえない」と否定する。しかし、すべての霊と天使たちは人間であることを知らないで、彼らにこのような観念があるのは、「神はみことばの中で〝霊〟と言われており、霊について雲の一部であるようにしか考えないからである」と答えられる。
しかしそれでも、その者たちの霊的な観念がその自然的な観念と似ているかどうか調べられ、主を天地の神として内的に認める者たちのもとでは似ていないことがわかった。
私は、キリスト教徒のある長老が、「神人間の観念をだれももつことができない」と言うのを聞いた。それから私は、彼が、いろいろな異邦人のもとへ、ひき続いてさらに内的な者のもとへ、彼らから彼らの天界へ、ついにキリスト教徒の天界へ運ばれるのを見た。どこででも、彼は、神についてその者たちの内的な知覚が自分に伝達され、彼らには、神は人間であるという観念しか存在しなかったこと、それは神人間の観念と同じであることに気づかされた〔『続 最後の審判』74番、参照〕。