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神の愛と知恵 407

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407 このようであることは、肺との心臓の結合から生き生きと確認することができます。そこには、意志と心臓の間に、また理解力と肺の間に、愛が理解力に対して霊的に行なうように、心臓が肺に対して自然的に行なうような対応があるからです。ここから、前述のことは目に示される映像のように見ることができます。
 心臓と肺が同時に働かない時、人間は何らかの感覚的ないのちの中にも、何らかの活動的ないのちの中にもないことは、胎児、すなわち、子宮の中の幼児の状態から、また出生後のその状態から明らかです。
 人間は、胎児であるかぎり、すなわち、子宮の中にいるかぎり、肺が閉ざされています。ここから、人間に何の感覚も、何の活動もなく、感覚器官は閉ざされ、手は結ばれ、同様に足も結ばれています。しかし、出生後、肺は開かれ、開かれるしたがって人間は感じ、行動します。肺は心臓から送り込まれた血によって開かれます。
 心臓と肺の1諸の働きがなくては、人間に何ら感覚的ないのちがなく、何ら活動的ないのちもないことは、気絶からもまた明らかです。気絶中は、心臓だけが働き、その時、呼吸は取り去られているので肺は働きません——気絶中に、何も感覚はなく、活動もないことはよく知られています。水または何らかのものによって咽頭をふさがれ、肺の呼吸のための通路を閉ざされ、窒息する者も同様です。その時、その者は、何も感じず、何も行動しないので死んでいるように見えますが、それでも心臓が動いていて生きていることは、よく知られています。というのは、肺の閉塞が取り除かれるとすぐに、感覚的ないのちと活動的ないのちの両方のいのちが戻るから。確かに、その間に血は肺を通って循環していますが、肺の動脈と静脈を通してであり、人間に呼吸する能力を与える気管支の動脈と静脈を通してではありません。理解力の中への愛の流入も同様です。