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神の愛と知恵 291

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291 「第二部」で示されたものにまた、次のこともあります。その太陽は主ではなく、その方の神的な愛と神的な知恵から「発出されるもの」であることです。
 「発出されるもの」と言われるのは、その太陽は神的な愛と神的な知恵からのものであり、それらは本質的に実体と形であり、神性はこれを通して発出するからです。
 しかし、人間の理性は、事柄をその原因から見ないなら、このようにまた、どのようにしてなのか知覚しないなら、満足しないようなものであるので、それゆえ、ここに霊界の太陽がどのようにして生み出されるのか、その太陽は主ではなく、その方から発出されるものですが、このことについて何らかのものを述べます。
 この事柄について私は天使と多くのことを話し、彼らは、「自分たちの霊的な光の中でこのことをはっきりと知覚しているが、そのことを自然的な光の中にいる人間の前で示すことがほとんどできない。二つの光に、またここからの思考に、このような相違があるからである」と言いました。
 それでも彼らは次のように言いました。「このことは、それぞれの天使を取り巻き、それによって近くの者と遠くの者に彼らの居合わせることが示される情愛とここからの思考のスフェアに類似している。その取り巻くスフェアは天使そのものではなく、彼の身体のすべてと個々のものからであり、それから実体が流れのように連続的に流れ出、また流れ出るものが彼を取り囲む——その身体に隣接するこれらの実体は、いのちの運動の二つの泉である心臓と肺によって、連続的に活動して、大気中にその活動をひき起こし、そのことによって他の者のもとに彼が居合わせるような知覚を示す——このように、たとえそのスフェアは発する、続く、と言われても、情愛とそこからの思考と別のスフェアではない、情愛は彼の心の形の単なる状態であるからである」。
 さらに、「このようなスフェアがそれぞれの天使のまわりにあるのは、主のまわりにあるからであり、その主のまわりのスフェアは同様にその方からのものであり、そのスフェアが、彼らの太陽、すなわち、霊界の太陽である」と言いました。