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神の愛と知恵 368

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368 (5) 愛がどのようなものであるかによって、知恵もそのようなものであり、ここから人間はそのようなものである
 なぜなら、愛と知恵がどんなものであるかによって、意志と理解力もそのようなものであるから、というのも、前に示されたように、意志は愛の容器であり、理解力は知恵の容器であり、これら二つのものが人間を、その性質をつくるからです。
 愛は多種多様であり、その変化に限りないほどにも多種多様であって、このことは地上と天界の人間から明らかにすることができます——違いが何もないほどに他の者と似ている人間や天使は一人もいません。区別するものは愛です、というのは、だれもが自分自身の愛であるからです。
 知恵が区別すると思われていますが、知恵は愛からのものであり、その形です。なぜなら、愛はいのちの本質(エッセ)であり、また知恵はその本質(エッセ)からの実在(エキシステレ)であるからです。
 世の中で、理解力が人間をつくると信じられています。このことが信じられているのは、前に示されたように、理解力は天界の光の中に高揚されることができ、このように人間が賢明であるように見えることができるからです。しかしそれでも、愛を越えた、すなわち、愛に属さない理解力は人間のものであるように、人間がそのようなものであるように見えますが、これは外観です——というのは、愛を越えた理解力も、確かに愛と知恵に属しますが、同時に、知り、賢明になるものを生活に適用しようとする愛に属さないからです。それゆえ、それは世の中で、時が経過とともに減り、あるいは記憶の事柄の外の辺境の中に1時的なものとして残されます。そのために、死後、分離され、その霊に固有な愛に一致するものを除いて残りません。
 愛は人間のいのち(生活)を、またこうして人間そのものをつくるので、それゆえ、天界のすべての社会は、また社会の中のすべての天使は、愛のものである情愛にしたがって配列されています。愛から分離した何らかの理解力にしたがって配列された社会はなく、また社会の中の天使はいません。
 地獄の中も、またそれらの社会も同様ですが、天界の愛に対立する愛にしたがって配列されています。
 これらから、愛がどのようなものであるかによって、知恵もそのようなものであり、ここから人間もそのようなものであることを明らかにすることができます。