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神の愛と知恵 316

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316 動物界の役立ちの形の中に同様に創造の映像があります。例えば、子宮または卵の中に送られた精子から最後のものである身体が形作られ、それは成熟するとき、新しい精子を生み出すことです。 この進行は植物界の役立ちの形の進行と同様です。精子は始まりであり、子宮または卵は地のようです。出産前の状態は、地の中の種の状態のようであり、その時、根を伸ばします。生殖までの出産後の状態は、結実の状態までの木の生育のようです。
この相似性から、植物の形の中に創造に類似したものがあるのように、動物の形の中にもあること、すなわち、最初のものから最後のものまで、また最後のものから最初のものまでへの進行があることが明らかです。
同じような創造の映像が、人間の中の個々のものの中にも存在します。なぜなら、同様に、愛は知恵によって役立ちの中へ進み、ここから同様に、意志は理解力によって行動の中に、また同様に、仁愛は信仰によって働きの中に進むからです。
意志と理解力は、なおまた仁愛と信仰は、始まる最初のものです。行動と働きは最後のものです。これらから、役立ちの楽しさよりその最初のものへ、述べられたように、意志と理解力または仁愛と信仰であるものへ戻ることがなされます。
戻ることが役立ちの楽しさからなされることは、それぞれの愛のものである行動と働きの楽しさの知覚からはっきりと明らかです。それは、愛のもとの最初のものへ逆流し、そのことによって結合があるためです。行動と働きの快さは、役立ちと呼ばれるものの快さです。
最初のものから最後のものへ、最後のものから最初のものへの進行と同様のものは、人間のもとの情愛と思考の器官の最も純粋な形の中に現われます。人間の脳の中に星のような形があり、それらは灰質と呼ばれます。それらから繊維が髄質により首を通って身体の中へ出て、最後のものまでに達し、最後のものからその最初のものへ戻ります。繊維がその最初のものへ戻ることは血管を通して行なわれます。
情愛と思考のすべての進行も同様であり、それらは形と実体の変化とその多様な状態です。というのは、それらの形または実体から出る繊維は、比べれば霊的な太陽からの熱と光の容器である大気のようであり、身体からの活動は、地から生み出された大気によるそれらの活動のようであり、それらの役立ちの楽しさはもとの起源へ戻るからです。
しかし、これらにこのような進行があること、またその進行に創造の映像が内在することは、理解力で十分に把握することはほとんどできません、その理由は、行動の中に働く数千や数万の力が一つのように見えるからであり、思考の中で、役立ちの楽しさがその思いを示さないで、明確に知覚させることなく〔感情に〕働きかけるだけであるからです。
これらについては、前に述べ、示されたものを見てください。例えば、創造されたすべてのものの役立ちは、高さの段階によって人間へ上昇し、人間を通ってもとの創造者である神へ上昇すること(65-68番)。創造の目的は最後のものの中に存在するようになり、それは、すべてのものは創造者に戻り、そして結合があるために存在することです(167-172番)。
しかし、これらは心臓と肺との意志と理解力の対応について扱われる次の部の中で、さらに明るい光の中で見られます。