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最後の審判と世の終わり 第二部 1

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第二部

(1)「マタイ福音書」24.3―8の解説  1―4

1[3353] 大部分の人間は、最後の審判がやって来るとき、世の中に見られるすべてのものが滅ぼされる、すなわち、地が焼き尽くされ、太陽と月が消滅し、星が消え、またその後、新しい天と新しい地が起こると信じています。〔彼らは〕その見解をこのようなものが記録されている預言の啓示から受け入れています。しかし、事実が異なっていたことは、「最後の審判」について前に示されたことから明らかにすることができます(900, 931, 1850, 2117-2133[1-17]番)。ここから、「最後の審判」は、一つの国民のもとの教会の終わり、そして他の国民のもとのその始まり以外の他のものではないことが明らかです。その時、存在するようになるその終わりとその始まりは、もはや主の承認が何もない時、または同じことですが、何も信仰がない時です。何も仁愛がないとき、何も承認が、すなわち、何も信仰がありません、なぜなら、信仰は仁愛の中にいる者のもとにしか決してありえないからです。その時、教会の終わりと他のものへ移ることは、それらを主ご自身がその最後の日について、すなわち、世代の完了(世の終わり)について、「福音書」で、すなわち、「マタイ福音書」第24章、「マルコ福音書」第13章、「ルカ福音書」第21章で教え、予言されたそれらのすべてからはっきりと明らかです。
しかし、それらは内意である鍵がなくては、だれからも把握されることができないので、それらをそこにあるものから順次、説明することが許されています。さて、ここで最初に、「マタイ福音書」のそれらは――

[2]弟子たちはイエスに近づいて、「あなたの来られることと世代の完了(世の終わり)のしるしが何か、いつそれが起こるか、私たちに言ってください」と言った。イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、だれかに惑わされないように気をつけなさい。というのは、多くの者が、『私がキリストである』と言って、わたしの名前にやって来て、多くの者を惑わすからです。あなたがたは戦争のことを、また戦争のうわさを聞くでしょうが、あなたがたは、〔心を〕乱されないように気をつけなさい。というのは、〔これら〕すべてのことが起こるからです、しかし、まだ終わりではありません。なぜなら、国民は国民に対して、また王国は王国に対して起き上がり、いろいろな場所に飢饉・疫病・地震(地の動き)があるからです。けれども、これらのすべてのことは苦痛の始まりです」(24:3-8)。

文字どおりの意味の中にとどまる者は、これらやその章の中に続いているものが、エルサレムの破壊とユダヤ民族が追い散らされることについて言われたのか、あるいは「最後の審判」と呼ばれる日々の終わりについて言われたのか、知ることができません。しかし、内意の中にいる者は、ここに教会の終わりが扱われていること、その終わりが、ここにまた他のところに主の来臨と世代の完了(世の終わり)と呼ばれているものであることをはっきりと見ます――またその〔教会の〕終わりが意味されるので、それらのすべてのものは教会に属すようなものを意味する、と知ることができます。けれども、内意で何が意味されるかは、個々のものから明らかにされます――
例えば、「多くの者が『私がキリストである』と言って、わたしの名前にやって来る」は、そこの「名前」は名前を意味せず、「キリスト」もキリストを意味しないで、「名前」は主が礼拝されるもの(手段)を意味します(2724, 3006番)。また「キリスト」は真理そのものを意味します(3009, 3010番)。「これは信仰に属すものである」、すなわち、「これは真理である」、と言う者がやって来ることもそうであり、実際には信仰に属すものも真理ではなく、虚偽です――「戦争のことを、また戦争のうわさを聞く」は、真理について論争と争いがあることであり、それが霊的な意味での戦争です――「国民は国民に対して、また王国は王国に対して起き上がる」は、悪は悪と、虚偽は虚偽と争うであろうことを意味します。「国民」は善です、しかし、正反対の意味では悪です(1259, 1260, 1416, 1849番)、また「王国」は真理です、しかし、正反対の意味では虚偽です(1672, 2547番照)――「いろいろな場所に飢饉・疫病・地震がある」は、もはや善と真理の知識が何もないことです、そしてそのように教会の状態が変えられること、それが「地震」です。