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最後の審判と世の終わり 第二部 31

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31[4060] そこで、示されたそれらのことばによって、その時の善に関する、すなわち、隣人に対する仁愛と主への愛に関する教会の状態が意味されることが、それらのことばの内意から明らかであり、それらは以下のものです。
けれども、それらの日々の苦難の後、直ちに」は、信仰のものである真理に関する教会の状態を意味し、そのことについては直前の箇所の中に扱われています。真理の荒廃は、みことばの中のあちこちで「苦難」と呼ばれています。「」は状態です(23, 487, 488, 493, 893, 2788, 3462, 3785番参照)。ここから、もはや信仰が何もない後に、仁愛が何もないことが、それらのことばによって意味されていることが明らかです。というのは、信仰は何が仁愛であるか教えるので、仁愛へ導き、仁愛はその性を信仰のものである真理から、しかし、信仰の真理はその本とそのいのちを仁愛から受けるからです、それらは前の「部(巻)」の中でしばしば示されました。
[2]「太陽は暗くされ、月はその光を与えない」は、「太陽」である主への愛を、また「」である隣人に対する仁愛を意味します。「暗くされ、光を与えない」は、見えなくなる、そのように消えることを意味します。「太陽」は愛の天的なもの、また「」は愛の霊的なものであること、すなわち、「太陽」は主への愛、また「」は信仰を通して〔やって来る〕隣人に対する仁愛です(1053, 1529, 1530, 2120[4], 2441, 2495番照)。それが太陽と月の意味である理由は、主が来世の中で、天的な者と呼ばれるその方への愛の中にいる者に天界の中の太陽として見られ、また霊的な者と呼ばれる隣人に対する仁愛の中にいる者に月として見られるからです(1053, 1521, 1529-1531, 3636, 3643番参照)。
[3] 天界の中の太陽と月は、すなわち、主は、決して暗くされないし、光も失いません、しかし、永続的に輝き、そのように、天界の中の天的な者のもとのその方への愛も、また霊的な者のもとの隣人に対する仁愛も、それらの天使たちがいる地上の者、すなわち、愛と仁愛の中にいる者もそうなりません。しかし、決して愛と仁愛の中にいないで、自己愛と世俗愛の中に、ここから憎しみと復讐の中にいる者のもとで、彼らは自分自身にその暗さそのものをひき起こしています。このことは世の太陽の場合のようです、太陽は絶えず輝いています、しかし、雲が間にはさまるとき、〔太陽は〕見られません(〔太陽については〕2441番参照)。
[4]「星は天から落ちる」は、善と真理の知識が滅びることを意味します。みことばの中でそこに名前が挙げられている「星」によって他のものは意味されません(1808, 2849番)。「天の力は揺り動かされる」は、教会の基礎(土台)を意味します、それが滅びるとき「揺り動かされることとゆさぶられること」が言われます。というのは、地上の教会は天界の基礎であるから、なぜなら、善と真理の流入は、主から天界を通って最後に教会の人間のもとの善と真理の中で終結するからです、それゆえ、教会の人間がこのようなゆがめられた状態の中にいるとき、善と真理の流入がもはや許されないために、その時、「天の力は揺り動かされる」と言われます。そのために、何らかの教会が残るように、また旧い教会が滅びるとき、新しいものが設立されるように、常に主により備えられています。
[5]「その時、「人の子」のしるしが天の中に見られる」は、神的な真理の出現です。「しるし」は出現であり、「人の子」は神的な真理に関する主です(2803, 2813, 3704番参照)。弟子たちが、主へ言ったとき、この出現、すなわち、このしるしについてです、

私たちに言ってください、それがいつ起こるか、あなたの来られることと世代の完了のしるしが何か(この章の第3節)。

というのは、みことばから〔彼らは〕世代が完了するとき、主が来臨されることを知り、また主から、再び来ることを知っており、そのことによって、主が世の中にもう一度やって来ること理解しましたが、教会が荒廃するたびごとに、主がそれほどしばしばやって来ることを、まだ知っていなかったからです。出生から人間性をまとわれ、これを神的なものにされたときのように、人物の中にでなく、マムレのアブラハムに、柴の中でモーセに、シナイ山の中でイスラエルの民に、カナンの地に入ったときのヨシュアに見られたときのような出現または顕現によってです。あるいは、このような顕現によってではなく、例えば、霊感によってであり、その霊感によって、みことばが書かれたのです。またその後、みことばによってです、というのは、みことばの中に主が現在されるから、なぜなら、今までしばしば示されたものから明らかにすることができるように、みことばのすべてのものはその方からであるからです。 「人の子のしるし」によってここに意味されるものは、この出現であり、それについてこの節で扱います。
[6]「その時、地のすべての種族は嘆き叫びます」は、愛の善と信仰の真理の中にいるすべての者が悲嘆の中にいることを意味します。「嘆き叫ぶ」ことはそのことを意味します(ゼカリヤ書12:10-14参照)。また「種族」が善と真理のすべてのもの、すなわち、愛と信仰のすべてのものを意味します(3858, 3926番)、したがって、それらの中にいる者です。教会内にいる者が意味されるので「地の種族」と言われます。「」は教会です(662, 1066, 1067, 1262, 1733, 1850, 2117[1], 2928, 3355[3]番参照)。
[7]「また人の子が天の雲の中に、多くの力と栄光ともに、やって来るのを見ます」は、その時、みことばが、その中に主がおられるその内意に関して啓示されることを意味します。「人の子」はその中の神的な真理であり(2803, 2813, 3704番)、「」は文字どおりの意味です。善について「」が、また真理についてそこに「栄光」が述べられています。それらが「人の子が天の雲の中にやって来るのを見る」によって意味されていることは、「創世記」第18章への序言に見られます。ここに意味されているものは主の来臨ですが、文字どおりの意味にしたがって雲の中に見られるのではありません。そこで、新しい教会の設立について続けられ、それは旧い教会が荒廃し、拒否されたとき生じます。
[8]「自分の天使たちを、らっぱと大きな音とともに、送り出す」は、選びを意味しますが、見ることのできる天使たちによってでなく、まして、らっぱと大きな音によってではありません、しかし、主から天使たちを通しての善の聖なるものと真理の聖なるものの流入によってです、それゆえ、みことばの中の「天使たち」によって、主の何らかのものが意味されます(1925, 2821, 3039番)。ここに主から、また主についての聖なるものが意味されます。「らっぱと大きな音とともに」は、みことばの他の箇所のように、福音を説くことを意味します。
[9]「天の端から端まで、四つの方向から、その方の選ばれた者を集めます」は、新しい教会の設立を意味します。「選ばれた者」は、愛と信仰の善の中の者です(3755[19]番以降、3900[25]番)。「四つの方向」は、それらから集められますが、善と真理のすべての状態です(3708番)。「天の端から端まで」は、教会の内なるものと外なるものです。
それで、これらが主のみことばによって意味されるものです。