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最後の審判と世の終わり 第二部 41

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41[4424] 前に示された主のことばが内意では何を含むか説明なしに明らかにすることができます。というのは、主はそこでは表象するものと表意するものによってではなく、たとえによって話されるからです。最後の節のことばが何を意味するかだけを述べます、すなわち、「彼を分裂させ、その部分を偽善者とともに置きます。そこには嘆き叫びと歯ぎしりがあります」です――「彼を分裂させる」は、善と真理からの分離と移動を意味します。というのは、教会内にいて、またそれでも悪の生活の中にいて、善と真理の知識の中にいるような者は、それら〔知識〕から遠ざけられるとき、彼らは分裂させられる者と言われるから。なぜなら、彼らから善と真理の知識が来世の中で分離されるとき、悪の中に、またここから虚偽の中にも保たれるからです。その理由は、善と真理の知識によって天界と連絡し、また悪とここからの虚偽によって地獄と連絡し、またこのように両方の間にぶら下がらないように、さらにまた、悪と虚偽に混ぜられるときに生じる善と真理を冒涜しないようにするためです――このような者もまた、地中に〔自分の〕タラントを隠した者への主のことばによって意味されています、

「彼からタラントを取り上げ、十タラントを持っている者に与えなさい」。なぜなら、持っているすべての者は満ち溢れるように与えられる、けれども、持たない者からは持っているものもまた取り去られるからです(マタイ25:28, 29)。

なおまた主が他のところで、「マタイ福音書」13:12、なおまた「マルコ福音書」4:25、また「ルカ福音書」8:18でもまた、それらが意味されます。
[2]「またその部分を偽善者とともに置きます」は、彼らの運命(割り当て地)を意味し、それが彼らの「部分」〔割り当てられた地〕です。その者は外面上、教えに関して真理の中に、また生活に関して善の中に見られます、しかし、内面的に、真理を何も信じず、善を何も意志せず、その者は偽善者です。彼らはこのように分裂させられます。そのために、彼らに外なるものが取り去られるとき、来世の中ですべての者に生じるように、内なるものに関してどのような者であるか見られます、すなわち、信仰と仁愛がないことです。それでも、名誉・利益・名声を得て、他の者を捕えるためという理由で、それら〔信仰と仁愛〕を装います――荒廃した教会内にいる者は、ほとんどすべての者はこのような者です。というのは、彼らは外なるものを持っています、しかし、内なるものは何も持っていないから。ここから彼らに内的な洪水があります(それについては直前の4423[40]番)。
[3]「そこには嘆き叫びと歯ぎしりがあります」は、来世の中の彼らの状態を意味し、「嘆き叫び」は悪に関する状態、また「歯ぎしり」は虚偽に関する状態です。というのは、みことばの中の「歯」は、最低の自然的なものを意味し、本来の意味ではそれらの真理を、正反対の意味ではそれらの虚偽であるから。というのは、「歯」は、それらに対応するから。それで、「歯ぎしり」は、真理との虚偽の衝突です。単なる自然的なものの中にいる者は、また感覚の欺きからそれらの中にいる者は、それゆえ見ないものを何も信じません。彼らは「歯ぎしりの中に」いると言われ、そしてまた、来世で自分自身が〔歯ぎしりの中に〕いることが見られ、なおまた自分自身の欺きから信仰の真理について結論します――善と真理に関して荒廃した教会の中に、このような者が満ち溢れています――さらにまた歯ぎしりによって同様のものが他の箇所に意味されています、例えば、「マタイ福音書」に、

王国の息子たちは外の暗やみの中に投げ出され、そこに嘆き叫びと〝歯ぎしり〟があります(8:12)。

王国の息子たち」は、荒廃した教会の中の者です。「暗やみ」は虚偽です(4418番)、というのは、曇った霧の中にいるとき暗やみの中にいるからです、そのことについては前に〔述べました〕。そこの「歯ぎしり」は、真理との虚偽の衝突です――同じく他の箇所に〔あります〕(例えば、「マタイ福音書」13:42, 50, 22:13, 25:30、また「ルカ福音書」13:28)。