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最後の審判と世の終わり 第二部 42

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(10)世代の完了  42

42 [4535] 〔創世記の〕第26章からここまでの章の前に、主がご自分の到来について、すなわち、「世代の完了」について予言し、また数回、そこに、ご自分の到来、すなわち、世代の完了によって、「教会の最後の時」が意味されること、さらにまたみことばの中で最後の審判と呼ばれていることが示され、説明されました――文字どおりの意味を超えて見ることのない者は、「最後の審判」が「世の滅亡」であることとしか、このことを特に「黙示録」からしか、知ることができません、そこに〔次のように〕言われています、

私は〝新しい天〟と〝新しい地〟を見た。〝以前の天と以前の地は過ぎ去ったからである〟。海はもはやなかった。私は聖なる都、新しいエルサレムが神から天から下って来るのを見た(21:1, 2)。

そしてまた「イザヤ書」の預言から、そこに同様のものが〔あります〕、

見よ、わたしは〝新しい天〟と〝新しい地を創造している〟。それゆえ、以前のものは思い出されず、心にも上らない。あなたがたは永遠に喜べ、また小躍りして喜べ、それをわたしは創造している。見よ、わたしはエルサレムを創造し、小躍りするものとし、その民を喜ぶ(65:17, 18, 66:22)。
[2]文字どおりの意味を超えて見ることのない者は、地とともに全天がそこに何もないほどに粉みじんにされ、またその時、初めて死人は復活させられ、新しい天の中にそして新しい地の上に住むとしか把握しません。しかし、このみことばがこのように理解されてはならないことは、天と地の名前が挙げられているみことばの中の他の多くの箇所から明らかにすることができます――内意について何らかの信仰を持つ者は、新しい天と新しい地によって新しい教会が意味されていることをはっきりと見ることができ、その教会は以前のものが過ぎ去ったとき後に続きます(1733, 1850, 3355[3]番以降参照)。「天」がその内なるもの、「地」が外なるものです。
[3]前の教会のこの最後の時と、新しい教会の最初の時が、世代の完了とも呼ばれるものであり、それについて、またご自分の到来を、主は「マタイ福音書」第24章で語られています、なぜなら、その時、主は前の教会から去り、新しいものへやって来られるから――世代の完了がそのことであることは、みことばの中の他の箇所からもまた明らかにすることができます。例えば、「イザヤ書」に、

その日に……残りの者は、ヤコブの残りの者は力ある神に立ち返る。なぜなら、あなたの民イスラエルが海の砂のようになる、それから残りの者は立ち返るから。〝完了が定められ〟、義が氾濫した。なぜなら、〝完了〟と〝決定〟を万軍の主エホバが〝全地〟に行なわれているから(10:20-23)。

同書に、

今、あなたがたはあざけることがないようにせよ。ことによると、あなたがたの罰が強められないかもしれない、私は〝完了〟と〝決定〟を、万軍の主エホバとともに〔その方〕から、〝全地の上に〟聞いたからである(28:22)。

「エレミヤ書」に、

このようにエホバは言われた。〝全地〟は荒廃する、それでも、わたしは〝完了〟を行なわない(4:27)。

「ゼパニヤ書」に、

わたしは人間を苦痛の中に追いやる、また彼らはエホバに罪を犯したのでその盲目のように行く。彼らの血はちりのように、彼らの肉は糞のように、まき散らされる。……エホバは〝完了〟を、実に性急に〝地のすべての住民に〟行なわれる(1:17, 18)。

完了」がそこの教会の最後の時であり、また「」が教会であることは、個々のものから明らかです――
[4]地が教会であることは、カナンの地がそこに最古代の自体から教会があった地であり、そしてその後、ヤコブの子孫のもとに教会を表象するものがあったからです。この地が完了したと言われるとき、意味されるものはそこの国民ではなく、そこの民族の教会のものである礼拝の聖なるものです。というのは、みことばは霊的なものであり、地そのものは、民族もまた霊的なものでなく、教会のものが霊的なものであるからです――カナンの地は、そこに最古代の時代から教会があった地です(567, 3686, 4447, 4454, 4516, 4517番照)。またそのよう〔であった〕ので、みことばの中で「地」によって教会が意味されました(566, 662, 1066, 1067, 1262, 3355[3], 4447番)。ここから、「イザヤ書」の「全地に行なわれる完了」によって、また「ゼパニヤ書」の「地のすべての住民のもとの性急な完了」によって何が意味されているか明らかです。その地の住民であったユダヤ民族が、完了させられなかったこと、しかし、彼らのもとの礼拝の聖なるものが完了させられたことは、よく知られています。
[5]完了がそのことであることは、さらにはっきりと「ダニエル書」に明らかです、

あなたの民の上に、またあなたの聖なる都の上に、そむきの罪の〝完了〟のために、罪を封印するために、不法を償うために、世代の義をもたらすために、幻と預言を封印するために、また至聖所に油を注ぐために、七十週が定められている。……週の真ん中でいけにえとささげ物をやめさせる。最後に〝完了〟と〝決定〟にまでも鳥の上に荒廃の荒廃があり、荒すことの上に滴り落ちる(9:24, 27)。
[6]ここから今や、弟子たちは主に向かって、

あなたの到来と〝世の終わり〔世代の完了〕〟のしるしは何ですか? (〔マタイ〕24:3)。

〔と問した〕世代の完了によって教会の最後の時以外に何も意味されないことを見ることができます。そしてまた、同じ福音書の最後にある主の次のことばによって、
イエスは弟子たちに、

わたしがあなたがたに命じたどんなことでも、教えたことのすべてのことをあなたがたは守りなさい。見よ、わたしは、〝世の終わり〟まですべての日に、あなたがたともにいます(28.20)。

主により、弟子たちとともに世の終わり〔世代の完了〕までいる、と言われたのは、主の十二弟子によってイスラエルの十二部族と同様のものが、すなわち、愛と信仰のすべてのもの、それゆえ、教会のすべてのものが意味されるからです(3354[2], 3488[7], 3858番参照)。十二部族によって(3858, 3926, 3939, 4060[31]番)――教会の完了が、そこにもはや仁愛が何もなく、またここから信仰が何もない時であることは、前に数回、示されています――キリスト教会と呼ばれるこの教会の中に、仁愛の何らかのものまたここから信仰の何らかのものがほとんど残っていないことは、そのように世代のその完了が今や現存することは、続くものの中で、主の神的慈悲から示されます。