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主について51

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51 (5) 「霊」によって、そこに主について〔述べられているとき〕、特に、神的真理であるその方の知恵のいのちが意味される——

 わたしはあなたがたに真実を言います。わたしが立ち去ることはあなたがたに益です——というのは、もしわたしが立ち去らないなら、パラクレートスはあなたがたにやって来ないからです。けれども、もしわたしが立ち去ったなら、わたしは彼をあなたがたに遣わします(ヨハネ16・7)。
 彼が、真理の霊がやって来る時、あなたがたをすべての真理の中に導きます。自分自身からは話しません。しかしどんなものでも聞いた〔ことを〕話します(ヨハネ16・13)。
 彼はわたしを栄化します、わたしから受け入れて、あなたがたに知らせるからです。父が持っているどんなものでも、すべてのものはわたしのものです。わたしについて受け入れ、あなたがたに知らせるために、わたしは言いました(ヨハネ16・14、15)。
 わたしは父にお願いします。あなたがたにもうひとりの助け主(パラクレートス)を与えてくださることを……真理の霊、それを世は受け入れることができません、それを見ないし、それを知りもしないからです。けれども、あなたがたはその方を知っています。あなたがたのもとにとどまり、あなたがたの中にいるからです。わたしはあなたがたを、孤児を、置き去りにしません。わたしはあなたがたのところにやって来ます、あなたがたはわたしを見ます(ヨハネ14・16―19)。
わたしはあなたがたに父から遣わす助け主(パラクレートス)がやって来る時、真理の霊が……わたしについて証言します(ヨハネ15・26)。
 イエスは叫んで、言われた、「だれかが渇いたなら、わたしにやって来て飲みなさい。わたしを信じるだれでも、聖書が言っているように、その方の腹から、生きている水の川が流れ出ます」。これを……その方を信じる者が受け入れることになる霊について言われた。イエスはまだ栄化されていなかったので、聖霊はまだなかったからである(ヨハネ7・37―39)。
 イエスは弟子たちの中に息を吹き込み、言われた、「聖霊を受けよ」(ヨハネ20・22)。

[2]「助け主(パラクレートス)」、「真理の霊」、「聖霊」によって、主が自分自身を意味したことは、「世は彼をまだ知らなかった」という主のことばから明らかです。というのは〔彼らは〕まだ主を知らず、「その方を遣わす」と言ったとき、〔次のことばを〕と言い足したからです、

 わたしは、あなたがたを、孤児を、置き去りにしません。わたしはあなたがたのところにやって来ます、あなたがたはわたしを見ます(ヨハネ14・16―19、26、28)。

また他の箇所に、

 見よ。わたしはすべての日々に、世代の完了まで、あなたがたといます(マタイ28・20)。
 トマスが、「私たちはあなたがどこへ行くか知りません」と言ったとき、イエスは、「わたしは道と真理です」と言われた(ヨハネ14・5、6)。

[3]「真理の霊」または「聖霊」は、真理そのものである主と同じものであるので、それゆえ、さらにまた言われました、

 イエスはまだ栄化されていなかったので、聖霊はまだなかった(ヨハネ7・39)。

なぜなら、栄化すなわち父との完全な結合の後、それは十字架の受難によって行なわれましたが、その時、主は神的知恵と神的真理、このように聖霊であられたからです。
主が弟子たちの中に息を吹き込み、「聖霊を受けよ」と言われたのは、天界のすべての呼吸は主からであったからです——というのは、天使に人間と等しく呼吸と心臓の振動があるからです。主からの神的知恵の受容にしたがって彼らに呼吸があり、主からの神的愛の受容にしたがって彼らに心臓の振動または鼓動があります——このようであることは、その箇所に見られます。
[4]聖霊が主からの神的真理であることは、これらの箇所からさらに明らかです——

 彼らがあなたがたを会堂に引き渡した時……何を言ったらよいか心配してはなりません。その時、聖霊が、あなたがたが言うべきことを教えてくださいます(ルカ12・11、12、21・14。マルコ13・11)。
 エホバは言われた、「わたしの霊はあなたの上に〔ある〕、わたしがあなたの口の中に置いたわたしのことばは、あなたの口から去らない」(イザヤ59・21)。
 エッサイの幹から若枝が出る……自分の口の杖で地を打ち、自分の唇の霊で不信心な者を殺す……真理はその方の腰の帯となる(イザヤ11・1、4、5)。
 今や、口で命じ、その方の霊がそれらを集めた(イザヤ34・16)。
 神を崇拝する者は、霊と真理の中で崇拝するべきです(ヨハネ4・24)。
 生かすものは霊であり、肉は何も生み出しません。わたしがあなたがたに話すことばは、霊といのちです(ヨハネ6・63)。
 ヨハネは言った。「私はあなたがたに悔い改めへ向けて、水で洗礼を授けます。けれども、私のあとにやって来る者は……聖霊と火の洗礼を授けます」(マタイ3・11。マルコ1・8。ルカ3・16)。

「聖霊と火で洗礼を授けること」は、信仰のものである神的真理によって、また愛のものである神的善によって再生させることです。

 イエスは、洗礼を受けたとき、天が開き、聖霊が鳩のように下るのを見られました(マタイ3・16。マルコ1・10。ルカ3・21、22。ヨハネ1・23、33)。

鳩は神的真理による清めと再生の表象です。
[5]そこに主について〔述べられている〕「聖霊」によって、神性そのもののいのちが意味されるので、このようにその方が——特に、神的真理と呼ばれるその方の知恵のいのちが意味されるので——それゆえ、預言書の「霊」によって、それは「聖霊」とも呼ばれますが、主からの神的真理が意味されます。続く次のものの箇所でのように——

 霊は諸教会に言われた(黙示録2・7、11、29、3・1、3、6、13、22)。
 王座の前で燃えている七つの明かりの火は……神の七つの霊である(黙示録4・5)。
 長老たちの真ん中に小羊が立っている……七つの目を持って、それらは全地に遣わされた神の七つの霊である(黙示録5・6)。

明かりの火」と「主の目」は神的真理を意味し、そして「七つ」は聖なるものを意味します。

 霊は言われた、「自分たちの労苦から休むように」(黙示録14・13)。
 霊と花嫁は言った、「来てください」(黙示録22・17)。
 エホバがご自分の霊の中に、預言者の手を通して送った律法またはことばを聞かないように、〔彼らは〕自分たちの心をダイヤモンドとした(ゼカリヤ7・12)。
 エリヤの霊がエリシャの上にやって来た(列王記Ⅱ2・15)。
 ヨハネは「エリヤの霊と力の中で」前を行った(ルカ1・17)。
 「エリサベツは聖霊に満たされて」預言した(ルカ1・41)。
 ザカリヤは聖霊に満たされて預言した(ルカ1・67)。
 ダビデは聖霊の中で言った。「主は私の主に言われた。わたしの右に座りなさい」(マルコ12・36)。
 イエスの証しは預言の霊です(黙示録19・10)。

それで、「聖霊」によって、特に、神的知恵に関する主が、またここから神的真理に関する主が意味されるので、聖霊について、照らす、教える、吹き込むことがどこから言われているか明らかです。