主について58
58 その教えのすべてのものがその言葉の個々のものに関して真理であることは、三つの位格の三一性の代わりに一つの位格の三一性が理解されるかぎり、再び書き写した同じものから明らかにすることができます、今、それらを続けてみます——
救われることを欲する者はこのキリスト教の信仰を守ることが必要である。このキリスト教の信仰は——
三一性の中の一つの神を、また同一性の中の三一性を、三つの位格の三一性を混ぜないで、本質を分離もさせないで私たちが崇拝することである。
一つの位格の三一性は、父・子・聖霊と呼ばれるものである。
父・子・聖霊の神性は一つの同じものであり、栄光と威厳は等しい。
どのような父であるかによって、そのような子があり、そのような聖霊がある。
父は創造されず、子は創造されず、聖霊は創造されない。父は無限であり、子は無限であり、また聖霊は無限である。それでも、三つの無限なる者はない、三つの創造されない者もない、しかし一つの創造されない者、一つの無限なる者がいる。
同様に、父が全能であるように、そのように子は全能であり、聖霊は全能である、それでも、三つの全能なる者はいない、しかし一つの全能なる者がいる。
父が神であるように、そのように子は神である、聖霊は神である、それでも、三つの神はいない、しかし一つの神がいる。
たとえ父は主であっても、子は主であり、聖霊は主であり、やはりそれでも三つの主ではない、しかし一つの主である。
そこで、キリスト教の真理から私たちが一つの位格の中の三一性を認めるように、それは神と主である、このようにキリスト教の信仰から私たちは一つの神と一つの主を言うことができる。
父はだれからも作られず、創造されず、生まれもしない——子は父おひとりからであり、作られず、創造もされない、しかし生まれた——聖霊は父からである、また子からであり、作られもしない、創造もされない、生まれもしない、しかし発出している——そのように一つの父であり、三つの父ではない、一つの子であり、三つの子ではない、一つの聖霊であり、三つの聖霊ではない——この三一性の中にだれも最大の者と最小の者ではない、しかし完全に等しい。
そのように完全であるために、前に言われたように、三一性の中の同一性を、同一性の中の三一性を崇拝しなければならない。