神の愛と知恵 233
233 天界から私に、「エホバである永遠からの主の中に、世で人間性をまとう前に、天使のもとにもまた存在するような、前の二つの段階が実際に、また第三の段階が可能性の中に存在した。しかし、世で人間性をまとった後、自然的なものと呼ばれる第三の段階もまた重ねてまとわれ、そのことによって世の中の人間と同様の「人間」となられたが、それでも、この段階は、以前のもののように、無限であり創造されたものではなく、天使と人間の中のそれらの段階は有限であり、創造されたものであるという相違があった」と言われました。
というのは、神性は、空間なしにすべての空間を満たし(69―72番)、さらにまた自然の最後のものにまで浸透したから。しかし、人間性をまとう前、自然的な段階の中への神的な流入は天使の天界を通した間接のものでしたが、まとうわれた後は、その方からの直接のものでした。これが、その方の来臨の前、世の中のすべての教会は、霊的なものと天的なものを表象するものでしたが、その方の降臨の後、霊的で天的な自然的なものとなり、表象的な礼拝が廃止されたことの理由です——天使の天界の太陽は、それは前に言われているように、その方の神的な愛と神的な知恵の最初に発出するものであり、人間性をまとわれた後、輝いて、まとわれる前よりも、並外れて輝いたこともまた理由です。
このことも「イザヤ書」の次のものによって意味されています、
その日、月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は、七つの日の光のように七倍になる(30:26)。
これらは世への主の来臨の後の天界と教会の状態について言われています。そして「黙示録」に、
人の子の顔が「太陽のようにその力の中で輝く」(1:16)のが見られました。
また他のところに(例えば、イザヤ60:20、サムエル記Ⅱ23:3, 4、マタイ17:1, 2)。
天使の天界を通して、間接的に人間が照らされることは、それは主の来臨の前でしたが、太陽の間接的な光である月の光にたとえることができます。それは主の来臨の後、直接のものとされたので、「イザヤ書」に、「月の光は太陽のようになる」と言われています。また「ダビデ」には、
その方の日々に正しい者が栄える、月のない時まで多くの平和が(詩篇72:7)。
このこともまた主について言われています。