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神の摂理 108

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108 これらのたとえから、意志と理解力のすべてのものの結合が、すなわち、彼のいのちの愛と人間の心の結合が確かに見られることができますが、それでも、〔まだ〕理性的には見られません。
その結合は理性的に、次のように見られることができます――どこでも一緒になった三つのものがあり、それらは一つのものとなっていて、それらは目的・原因・結果と呼ばれます。そこに、いのちの愛は目的であり、情愛はそれらの知覚とともに原因であり、そして情愛の快さはそれらの思考とともに結果です。なぜなら、目的が原因によって結果の中にやって来るのと同様に、このようにまた愛はその情愛によってその快さへ、その知覚によってその思考へやって来るからです。
結果そのものは、快さが意志のものであり、そして思考がそこからの理解力のものである時、このように十分な一致がそこにある時、心の快さとそこからの理解力の思考の中にあります。その時、結果は彼の霊のものです、もし身体の活動の中にやって来ないなら、それでもその時、一致するものが行動の中にあるようなものです――さらにまたその時、身体の中に一緒にあり、そのいのちの愛とともにそこに住んでいます。そして、行動したい気にさせ、何も妨げない時、それは生じます。
悪の欲望は、また悪そのものは彼らのもとでこのようなものであり、その者は自分の霊の中で悪が許されているとします。
[2]それで、目的がそれ自体を原因に、原因によって結果に結合するように、そのようにいのちの愛は思考の内なるものと、これによってその外なるものと結合します。
ここから、人間の思考の外なるものは本質的にその内なるもののようなものであることが明らかです、なぜなら、目的はそのすべてのものを原因に与え、原因を通して結果に与えるからです。というのは、本質的なものは、原因の中にあるもの以外に、結果の中に何も存在しないから、また目的の中に原因を通して、このように目的にある本質的なものそのものが、原因と結果に入るからです、それゆえ、原因は中間の目的、結果は最後の目的と呼ばれます。