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神の摂理 175

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(4–5)神的な摂理の法則は、神的な摂理の働きについて人間が何らかのものを知覚し、感じてはならない、しかしそれでも、それを知り、認めなくてはならないことである

175 神的な摂理を信じない自然的な人間は、自分自身に、「善い者よりも悪い者が名誉へ高められ、富を得るとき、信じる者たちよりも神的な摂理を信じない者たちが同じような多くのことに成功するとき、神的な摂理とは何か?」と考えます。
それどころか、不誠実な者そして不信心な者が、忠実な者と敬虔な者に、危害・損害・不幸を、時には死を、このことを欺くことと悪意によって、もたらすことができます。
また、次のように考えます、「私は経験そのものから、明るい日の中のように、人間が単なる才気ある抜け目なさから、狡猾な陰謀を忠実や公正にまさって行なうことができ、その陰謀は信ずるにたるものと正しいもののように見えないか?必然、成り行き、偶然でしかなく、それ以外の残りのものとは何か、それらの中に神的な摂理からの何も見られない。必然は自然的なものから、成り行きは自然または市民の秩序から流れ出る原因からのものであり、偶然は、知らない原因から、あるいは何もない原因からのものではないか?」
何も神に帰せず、すべてのものを自然に帰する自然的な人間は、このようなことを自分自身に考えます。なぜなら、その者は何も神に、何も神的な摂理に帰さないからです、というのは、神と神的な摂理は一つであるからです。
[2]けれども、霊的な人間が自分自身に言うかまたは考えることは異なっています。
この者は、神的な摂理をその進行中に、たとえ思考で知覚し、目の視覚で感じなくても、それでも知り、それを認めます。
それで、前述の外観とそこからの欺きが理解力を盲目にするので、これは何らかの視覚を受けることができません。盲目をもたらす欺き、暗黒をもたらす虚偽が追い払われないなら、導き入れられないからです。
このことは、虚偽を追い散らす力が内在する真理によってでないなら、行なわれることができません、それゆえ、これらの真理は開かれなければなりません、しかし、次の順序で明確に――

(1)人間が神的な摂理の働きを知覚し、感じるなら、理性にしたがって自由から行動はしないし、彼には何も自分自身からのように見えないであろう。出来事を前もって知るなら、同様である。
(2)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、その進行の秩序と進路へ自分自身を移動させ、そしてそれを曲げ、破壊する。
(3)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、神を否定するかあるいは自分自身を神にする。
(4)人間には、神的な摂理を顔からでなく背後から、なおまた自然的な状態の中でなく霊的な状態の中で、見ることが与えられる。