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神の摂理 176

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176 (1)人間が神的な摂理の働きを知覚し、感じるなら、理性にしたがって自由からは行動しないし、彼には何も自分自身からのように見えないであろう。出来事を前もって知るなら同様である
人間が理性にしたがって自由から行動するように、なおまた、すべての者が自分自身からのように見えるように、欲し、考え、話し、行なうこと、その外観なしに、何らかのものは人間に自分のものに、または、人間が自分自身にならないこと、このように彼のプロプリウムとならないこと、このように何も彼に転嫁されるものはなく、その転嫁なしに悪をあるいは善を行なう、神の信仰あるいは地獄の信念を抱くことに相違がなくなる、一言でいえば、人間でなくなる――これが神的な摂理の法則であることは、明白に理解できるように前章で示されています。
[2]そこで、次のことが示されなければなりません。神的な摂理の働きを知覚し、感じていたなら、人間には理性にしたがって働く自主性が何もなく、そして、彼に自分自身からのような外観が何もなかったでしょう。それを知覚し、感じていたなら、さらにまたそれにより導かれたでしょう。なぜなら、前にも示されているように、主はご自分の神的な摂理によってすべての者を導かれ、人間は外観だけによって導かれるからです。
それゆえ、もし、知覚と感覚によって生き生きと導かれるなら、生きている気がしないし、その時、音を立てて動く彫像とほとんど異なりません。
もし、それでも生きている気がするのなら、その時、手と足を縛られているかのように、または荷車の前に〔つながれた〕家畜のようにしか導かれません。
その時、人間には何らかの自由がない、とだれが見ませんか?
自由がないなら、何らかの理性もありません。なぜなら、だれもが自由から、自由の中で考え、何でも自由から、自由の中で考えないものは、彼に自分自身からのものではなく、他の者からのものに見えるからです。それどころか、あなたが内的にこのことを熟考するなら、人間に思考が、まして理性がなくなり、ここから人間でなくなることを知覚するでしょう。