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神の摂理 182

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182 (3)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、神を否定するかあるいは自分自身を神にする
単なる自然的な人間は自分自身に言います、「何が神的な摂理か?大衆のもとにある祭司からの言葉、何らかのまたはそれ以上の言葉なのか?だれがその何らかのものを見ているのか?思慮分別・知恵・欺き・悪意、それらから世の中のすべてのものは行なわれないのか?ここから残りのものは、必然と結果ではないのか?そしてまた、多くの偶発的なものではないのか?神的な摂理がこれらの中に隠されているのか?ごまかしと欺きの中に、どのように隠されていることができるのか?それでも、神的な摂理はすべてのもので働くと言われる――それでは、それを私が見るようにせよ、そうすれば私はそれを信じよう。だれかがそれを前もって信じることができるのか?」
[2]そのように、単なる自然的な人間は話します。けれども、霊的な人間は異なって話します。この者は神を認めるので、神的な摂理もまた認め、それを見もします。
しかし、その者は、自然から自然の中でないなら考えない者に、その摂理を明らかにすることができません。というのは、この者は心を自然の上に高揚させることができず、そして、その外観の中に神的な摂理の何らかのものを見ること、または、その法則からのそれについて、それらもまた神的な知恵の法則である、と結論することができないからです――それゆえ、もしそれをはっきりと見るなら、それを自然に注ぎ入れ、このようにそれを欺きで覆うだけでなく、冒涜もします。それを認めることに代わって、それを否定し、神的な摂理を心で否定する者は、神もまた否定します。
[3]神がすべてのものを支配する、あるいは自然がすべてのものを支配する、と考えてみなさい。神がすべてのものを支配すると考える者は、愛そのものと知恵そのものが、このようにいのちそのものが支配すると考えます。けれども、自然がすべてのものを支配すると考える者は、自然の熱と自然の光が支配すると考えます。それらはそれでも、生命のない太陽からなので、本質的に生命のないものです。
いのちそのものが生命のないものを支配するのではありませんか?生命のないものが何らかのものを支配することができますか?
あなたが、生命のないものがそれ自体にいのちを与えることができると考えるなら、気が狂っています――いのちは「いのち」からでなければなりません。