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神の摂理 183

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183 人間がはっきりと神的な摂理とその働きを見るなら、神を否定するであろうことは、ありそうにないように見えます。だれかがそれをはっきりと見るなら、それを、したがって神を認めることしかできないと見られるからです、しかしそれでも、正反対です。
神的な摂理は、人間の意志の愛と決して一つとして働かないで、絶えずそれと対立して働きます――なぜなら、人間は自分の遺伝悪から常に最低の地獄に向かってあえぎ求めます、けれども主はご自分の摂理によって彼を導き出し、彼をそこから、最初に穏やかな地獄へ、その後、地獄から、最後に、天界の中のご自分へ引き出されるからです。
この神的な摂理の働きは絶え間ないものです。
それゆえ、人間がはっきりとこの引き離しや引っ込めることを見るかあるいは感じるなら、怒って、神を敵とし、自分のプロプリウムの悪からその方を否定するでしょう――そのために、人間がこのことを知らないように、自由の中に保たれ、その自由から、人間は自分が自分自身を導くとしか知りません。
[2]しかし、説明に例が役立ちます。
人間は遺伝から、偉大な者になることを欲し、そしてまた富んだ者になることを欲します。彼にその愛が抑制されないかぎり、さらに偉大になり、さらに富むことを、ついには最も偉大になり、最も富んでいることを欲します。このように満足しないで、神そのものよりも偉大になることを、天界そのものを所有することを欲します。
この欲望が遺伝悪の中の内部に、ここから人間のいのちの中に、そしていのちの性質の中に隠れています。
神的な摂理は、この悪をすぐには取り除きません。なぜなら、すぐに取り除かれるなら、人間は生きないから――しかし、それは静かに、連続的に、人間がそのことについて何も知ることなしに取り除かれます。
このことは、人間に思考にしたがって、それを理性的に行ない、行動することが許されることによって生じます。その時、理性によっても、市民としての事柄や道徳によっても、いろいろな手段によって導き出します。このように自由の中で導き出されるかぎり、導き出されます。
悪もまた、現われ、見られ、認められないなら、取り除かれることができません。それは切開されないなら治癒されない傷のようです。
[3]そこで、人間が、主がご自分の神的な摂理によって最大の快さがある彼のいのちの愛に対してこのように働くことを、知り、見たなら、敵対する怒りの中にいて、激しく怒り、主張し、厳しいことを話し、ついには自分の悪から神的な摂理の働きを、このように神を否定して、それを無視することしかできなかったでしょう。特に、成功が妨害され、自分自身が地位から追い払われ、富を奪われることを見るなら、そうするでしょう。
[4]しかし、主は、名誉を求めようとすることから、富を得ようとすることから決して人間を連れ去らないで、卓越するだけのために、すなわち、自分自身だけのために、名誉を求めようとする欲望から連れ去ることを知らなくてはなりません。裕福だけのために、すなわち、富のために富を得ようとすることからも同様です。しかし、これらから連れ去るとき、彼を役立ちの愛の中へ導き入れ、卓越を自分自身のためでなく、しかし役立ちのために、このように役立ちから自分自身のものであると眺め、自分自身のものから役立ちであると眺めないようにされます。富も同様です。
主が絶えず高慢な者を低くし、謙遜な者を上げられることは、その方がみことばの中の多くの箇所で教えています。そこには、それがその方の神的な摂理であることも教えられています。