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神の摂理 186

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186 もしあからさまにその方の神的な摂理の働きを見るなら、人間は神と対立するようになり、否定するでしょう、人間は自己愛の快さの中にいて、その快さが彼のいのちをつくるからです。それゆえ、人間が自分のいのちの快さの中に保たれるとき、自分の自由の中にいます、というのは自由とその快さは一つとなっているから――そこで、もし絶えず自分の快さから連れ去られること知覚するなら、自分のいのちを滅ぼすことを欲する者に対するかように怒り、敵とします。
このことが生じないように、主はご自分の神的な摂理の中には見られません、しかし、それによって隠れている流れのように、または潮流にしたがった舟のように、静かに人間を導かれます――このことから人間は、常に自分のプロプリウムの中にいるとしか知りません、というのは、自由はプロプリウムと一つとなっているからです。
ここから、自由は人間に、神的な摂理が導き入れるものを自分のものにし、もしこれが自分自身に明らかにならないなら生じないことが明らかです。
自分のものにされることは、いのち(生活)に属すものにされることです。