神の摂理 187
187 (4)人間には神的な摂理を顔からでなく背後から、なおまた自然的な状態の中でなく霊的な状態の中で、見ることが与えられる
神的な摂理を顔からでなく背後から見ることは、それを前からではなく、後から見ることです。また自然的な状態からでなく霊的な状態からとは、世からでなく天界から見ることです。
天界から流入を受け、神的な摂理を認め、特に、改心によって霊的になっているすべての者は、出来事を何らかの驚くべき連鎖の中で見る時、あたかも、内的な承認からかのようにそれを見、確信します。
これらの者は、それを顔から、すなわち、存在するようになる前に見ることを欲しません、なぜなら、その何らかの秩序と進路に彼らの意志が入り込まないようにと恐れるからです。
[2]天界からの何らかの流入を許さないで、世だけからの流入を許して、特に、自分自身のもとの外観の確信から自然的になっている者は異なります。
これらの者は何らかの神的な摂理を背後から、すなわち、それを後ろから見ないで、それを顔から、すなわち、存在するようになる前に見ることを欲します。神的な摂理は手段によって働き、手段は人間を通してまたは世を通して存在するようになるので、それゆえ、顔からあるいは背後から見るにしても、それを人間かあるいは自然に帰し、このように神的な摂理を否定し、これを確信します。
そのように帰する理由は、彼らの理解力が上から閉ざされ、下だけから開かれ、そのように天界に向けて閉ざされ、世に向けて開かれているからです。神的な摂理を見ることは世から与えられないで、天界から与えられるからです。
時々、私は、彼らがもし自分の理解力が上から開かれたなら、また明るい日の光の中のように見たなら、自然は本質的に死んでいること、そして人間の理解力は本質的に無であり、〔自然と人間の理解力の〕二つとも存在するように見えるのは流入からである、という神的な摂理を認めたかだろうか、と私自身で考えました。私は、彼らが自分自身に自然のほうを選び、人間の思慮分別のほうを選んで確信し、下から流入する自然的な光がすぐさま上からの流入の霊的な光を消したことから〔神的な摂理を〕認めなかったことを知覚しました。
〔初版に188番はありません〕