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神の摂理 191

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(5)プロプリウムからの思慮分別は何もない、ただあるように見られるだけであり、さらにまた、そのように見られるべきである。しかし、神的な摂理は、最も個々のものから、普遍的に存在する

191 プロプリウムからの思慮分別は何もなく、まったく外観に反し、ここから多くの者の信念に反しています。そのようであるのは、人間の思慮分別がすべてのものを生じさせるという外観からの信念の中にいて、深い調査を要する論証によって納得させられなければ、そこから引き出されことができないからです。その外観は結果であり、それがどこからかであるかを原因が明らかにします。
この事柄の一般的な信念について、ここで前書きとして述べておきます。
このことは、愛と信仰が人間からでなく、神からであること、なおまた知恵と知性は、したがって思慮分別もまた、一般的にすべての善と真理も神からであるという教会が教える外観に反しています。
これらが受け入れられるとき、さらにまた、プロプリウムからの思慮分別は何もなく、しかし単に、それが存在すると見られることが受け入れなくてはなりません。
思慮分別は、知性と知恵から以外の別の源泉からでなく、またこれら二つは理解力とここからの真理と善の思考以外の別の源泉からではありません。
ここで言われていることは、神的な摂理を認める者により、受け入れられ、信じられますが、人間の思慮分別だけを認める者はそうではありません。
[2]そこで、すべての知恵と思慮分別は主からであると教会が教えることかあるいは、すべての知恵と思慮分別は人間からであると教えることが真理でなくてはなりません。
そうでなければ、教会が教えることが真理であり、世が教えることが外観であること以外に調和することができますか?
というのは、そのことを、教会はみことばから、しかし、世はプロプリウムから確信するからです。みことばは神からであり、プロプリウムは人間からです。
思慮分別は神からであり、人間からではないので、それゆえ、キリスト教徒は、信心の中にいる時、「神が私の思考・計画・行動を導いてくださるいますように」と祈り、さらにまた、「自分自身からではできないからです」と言い足します。
その者はまた、だれかの善行を見るとき、主によりそのことへと導かれたこと、また多くの同様のことを言います。
その時、そのことを内的に信じないなら、だれがそのように話すことができますか?
そして、内的にそのことを信じることは天界から信じることです。
しかし、自分自身で考えるとき、人間の思慮分別のための論拠を集め、正反対のことを信じることができ、またこのことは世からです。
しかし、内なる信念が神を心で認める者のもとでまさり、外なる信念が、神をどれほど口で認めても、心で認めない者のもとでまさります。