神の摂理 199
199 人間は、自分の外なる情愛の快さについて、これが身体のある感覚の快さと一つとして働く時、確かに熟考することができます。しかし、それでも、その快さは思考の中の彼の情愛の快さからであることについては熟考しません。
例えば――淫行する者が娼婦を見る時、彼の目の視覚は好色の火から赤く輝き、その火から身体の中に快さを感じます。しかし、それでもなお、何らかの熱望が身体と一緒でないなら、思考の中に彼の情愛の快さ、すなわち、情欲の快さを感じません。
旅人を見る時の森の中の盗賊も、船を見る時の海の海賊も同様であり、他のものでも同様です。
その快さは彼の思考を支配し、それらなしに思考は何ものでもないことは明らかです。思考だけが存在すると思えても、そのときそれでも、思考は、光の中で見えるようにと彼のいのちの愛から合成された形の中の情愛以外でないなら存在しません。なぜなら、すべての情愛は熱の中にあり、思考は思考の中にあるからです。
[2]これらは思考の外なる情愛であり、それらは確かにそれ自体を身体の感覚の中に現わします、しかし、心の思考の中ではまれです。
しかし、外なる情愛から存在するようになる思考の内なる情愛は、人間の前には決して現われません。これらの情愛について、人間は、馬車の中で眠っている以上に道について、また地球の回転以上に、多くのことを知りません。
さて、人間は、自分の心の内的なものの中で行なわれ、数で定められることができないほどに無限であり、それでもそれらが内的なものから生み出され、思考の視覚にやって来るその外なるものはわずかであり、そして内的なものは、主の神的な摂理を通してその方だけにより支配され、人間と一緒のそれら外なるものはわずかです、それらについて何も知らない時、どのように、ある者が、自分のプロプリウムの思慮分別がすべてものを行なう、と言うことができるのですか?
もし、あなたが開かれた思考の一つの観念だけでも見るなら、あなたは舌が口に出すことができるよりも多くの驚くべきものを見ます。
[3]人間の心の内的なものの中に、数で定められることができないほどに無限のものがあることは、身体の中の無限なものから明らかです。それらは単なる活動以外に、何も視覚や感覚にやって来ないし、その活動の大部分は単純なものです。それでも、その活動に向けて、運動または筋肉の数千の繊維、神経の数千の繊維、数千の血管、肺の数千のもの、脳の中と背中の脊柱の中のすべての活動の中で協力する数千のものがいっしょに行動します。もっと多くのものが人間の心である霊的な人の中にあり、そのすべてのものは情愛の形、ここからの知覚と思考の形となっています。
霊魂は、内的なものを統制し、そこから行動もまた統制していませんか?
人間の霊魂は彼の意志の愛であり、ここから彼の理解力の愛以外の何ものでもありません。
この愛がどのようであるかによって、人間全体もそのようなものであり、人間が主と一緒である外なるものの中で、配置にしたがって、そのようなものになります。
それゆえ、自分自身と自然にすべてのものを帰すなら、霊魂は自己愛になります。しかし、主にすべてのものを帰すなら、霊魂は主への愛となり、後者の愛は天界的であり、前者の愛は地獄的です。