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神の摂理 201

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201(4)主はご自分の神的な摂理によって全人類の情愛を一つの形に作り上げ、それは人間の形である
これが普遍的な神的な摂理であることは、続く段落の中に見られます。
すべてのものを自然に帰する者は、すべてのものを人間の思慮分別にもまた帰します。なぜなら、すべてのものを自然に帰する者は神を否定し、すべてのものを人間の思慮分別に帰する者は、心で神の摂理を否定し、一方はもう一方から分離されないからです。
しかし、それでもこれらの者は自分の名前の評判のために、それを失う恐れのために、「神的な摂理は普遍的である、その個々のものは人間のもとにある、これらの個々のものが全体としての人間の思慮分別によって意味される」と口にします。
[2]しかし、個々のものが分離されているときの普遍的な摂理とは何か、単なる言葉でしかないのではないか、と自分自身で考えてみなさい。
というのは、個々のものから同時に生じているものが普遍的なものと言われ、個々のものから存在するようになるものが全般的なものと言われるからです。そこで、もし、あなたが個々のものを分離するなら、その時、普遍的なものとは何ですか?それは、内部が空であり、このようにその内部が何もない表面のような、またはその中に何もない合成物でしかありません。
もし、普遍的な統治について、何らかのものが統治されず、しかし、単に結びつきの中で制御され、その統治に属するものが他の者により管理される、と言われるなら、これは普遍的な統治と呼ばれることができますか?
このような統治は、王のだれにもありません。なぜなら、王が家来のだれかに、自分の王国のすべてを統治することを与えるなら、彼はもはや王ではなく、王と呼ばれているにすぎないからです。このように地位の単なる名称であって、王には何の威厳もありません。
そのような王に、統治は、まして普遍的な統治は属性づけられることができません。
[3]神のもとでの摂理は、人間のもとで思慮分別と呼ばれます。
王と呼ばれるため王としての名称しか自分自身に保持しない王のもとで普遍的な思慮分別について言われることができないように、人間がプロプリウムの思慮分別からすべてのものを備えるなら、普遍的な摂理と言われることはできません。
自然について言われるときの普遍的な摂理と普遍的な統治の名称も同様であって、その時、神が全世界を創造され、自然がそれ自体からすべてのものを生み出すようにと、その自然に与えられたことが意味されます。
その時、普遍的な摂理とは、形而上学の言葉でしか、本質の存在しない言葉でしかありません。
さらにまた多くの者がいて、生み出されるすべてのものを自然に帰し、行なわれるすべてのものを人間の思慮分別に帰し、それでも、神が自然を創造された、と口で言う者は、神的な摂理について、無意味な言葉としか考えていません。
しかし、本質的に物事は、神的な摂理は自然の最も個々のものの中に、そして人間の思慮分別の最も個々のものの中にあり、それらから普遍的なものがあるようなものです。