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神の摂理 206

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206 プロプリウムの思慮分別がどこからで、何か――
思慮分別は人間のプロプリウムからであり、それは彼の性質であり、親からの彼の霊魂と呼ばれます。
そのプロプリウムは自己愛とそこからの世俗愛、または世俗愛とそこからの自己愛です。自己愛は、自分自身だけに目を向け、他の者たちを卑しい者であるかのように、あるいは無価値な者であるかのように見るようなものです。ある者を何らかのものとして見るにしても、自分を尊敬するかまたは礼拝するかぎり、そうします。
その愛の中の内部に、種の中の実を結ばせ、発育させる努力(コナトゥス)のように、大人物になりたいと欲することが隠れています。もしできるなら王になれること、その時、もしできるなら神になれることです。
悪魔は自己愛そのものであるので、このような者であって、自分自身そのものを崇拝するような、また他の者が自分を崇拝しないなら、その者に好意を持たないような者です。自分自身だけが崇拝されることを欲するので、自分自身に似ている他の悪魔を憎みます。
何らかの愛はその配偶者なしに存在することができず、人間の愛または意志の配偶者は理解力と呼ばれ、自己愛がその配偶者である理解力に自分の愛を吹き込むので、それはそこで高慢となり、知性のプロプリウムの高慢です。プロプリウムの思慮分別はここからです。
[2]さて、自己愛は世の唯一の主であることを、そのように神であることもまた欲するので、それゆえ、悪の派生物である悪の欲望は、本質的にそれらから、いのちがあります。欺くことである欲望の知覚も同じく、悪である欲望の快さも、虚偽であるそれらの思考も同じく、それらから、いのちがあります。
〔これらの〕すべてのものは、自分の主人の指図を行なう召使いと仕える者であって、〔主人の指図にしたがってどのように〕働いたらよいか知らないで、働かされるだけです。彼らは自己愛により、知性のプロプリウムの高慢を通して働かされます。
ここから、その起源からすべての悪の中にプロプリウムの思慮分別が隠れています。
[3]さらにまた自然だけを承認することが隠れています。自己愛は、主だけがすべてのものを支配されること、自然は本質的に死んだものであること、人間のプロプリウムは地獄であり、ここからプロプリウムの愛は悪魔であることを見ないし、聞きません。自分の屋根の窓を閉ざし(その窓によって天界が開かれていています)また側面の窓も閉ざすので、窓が閉ざされる時、自己愛は暗やみの中にあり、そこに自分たちの炉をつくり、そこに自分の配偶者と座り、神に反して自然に賛成し、神的な摂理に反してプロプリウムの思慮分別に賛成して、親しげに推論します。