神の摂理 215
215 (1) 一時的なものは、世の中の地位と富に、このように名誉と利益に関係する――
多くの一時的なものがあります、しかし、それでも、すべてのものは地位と富に関係します。
一時的なものによって、時間とともに滅びるかあるいは人間のいのちとともに世の中だけで存在をやめるものが意味されます。けれども、永遠のものによって、時間とともにないもの、したがって、世の中のいのちとともに滅びず、存在をやめないものが意味されます。
言われたように、すべての一時的なものは地位と富に関係するので、次のものを知ることが重要です。すなわち、「地位と富とは何か、どこからなのか」、「地位と富のためのそれらの愛がどんなものか、役立ちのためのそれらの愛がどんなものか」、「二つのそれらの愛は互いの間で地獄と天界のように分離していること」、「愛のそれらの相違は、ほとんど人間に知られていないこと」です。
しかし、これら個々のものについて、区別して示します。
[2]第一――地位と富とは何か、どこからなのか
最古代の時代に、地位と富は、その後に継続してあったものとは、まったく別ものでした。
最古代の時代に、地位は、両親と子どもの間にあるようなものと別ものではありませんでした。その地位は、両親からの出生ゆえではなく、彼らからの教えと知恵ゆえに尊敬と崇敬に満ちた愛の地位でした。その出生は彼らの霊の誕生であったので、本質的に霊的な第二の出生でした。
最古代の時代に、これは唯一の地位であり、その時、彼らは今日のような統治の下でなく、離れて、氏族・家族・家に住みました。
家長がいて、その者のもとにその地位がありました。
この時代は古代人により黄金時代と呼ばれました。
[3]しかし、その時代の後、支配する愛の快さだけからのそれらの愛が継続的に入り込みました。その時、自分に服従することを欲しなかった者に対する反目と敵意が一緒に入り込んだので、必要から、氏族・家族・家は集団として集まり、自分たちに、最初は士師と呼び、またその後、君主、また最後に、王や皇帝と呼ぶ者を置きました――そしてまた、その時、やぐら・土塁・城壁によって自分自身の防備を固めはじめました。
士師・君主・王そして皇帝から、頭から身体の中へのように、感染病のように多くの者の中へ支配欲が入り込み、ここから地位の段階が、そしてまたそれにしたがって名誉の段階が生じ、それらとともに自己愛とプロプリウムの思慮分別の高慢が生じました。
[4]富の愛にも同様のことが起こりました。
最古代の時代に、氏族と家族が自分たちの間で分かれて住んだ時、生活の必需品を所有すること以外の富への愛は他にありませんでした。それらの必需品は、羊の群れと牛の群れによって、耕地・野原・庭園によっても得られ、それらから彼らに食物がありました。
彼らの生活必需品には、すべての種類の家具で飾られた似つかわしい家もあり、さらにまた衣服がありました――彼らのすべての関心と働きは、家の中の両親・子ども・使用人・女使用人にありました。
[5]しかし、支配する愛が入り込み、この国を破壊した後、必需品以上に財産を所有しようとする愛もまた入り込み、他の者のすべての財産を所有しようと欲するような頂点にまで増大しました。
これらの二つの愛は血族のようです。というのは、すべての者を支配することを欲する者は、すべてのものを所有することもまた欲するから、なぜなら、このようにすべての者は奴隷になり、彼らだけが主人となるからです。
このことは、ローマカトリック教会の国で、自分の支配権を天界の中へ、主の王座にまで高め、その上に座り、さらにまた、全地の富を集め、そして宝庫に際限もなく増した者〔聖職者〕たちからはっきりと明らかです。
[6]第二――地位と富のためのそれらへの愛がどんなものか、役立ちのための地位と富への愛がどんなものか
地位と名誉のための地位と名誉への愛は自己愛、正確には、自己愛からの支配する愛であり、そして、富と財産のための富と財産への愛は世俗愛、正確には、どんな策略ででも他の者の財産を所有しようとする愛です。
けれども、役立ちのための地位と富への愛は、役立ちへの愛であり、それは隣人への愛と同じものです。なぜなら、人間が何かのために活動するものは、それからの目的であるから、また最初のものまたは主要なものであり、他のものは手段であり、従属的なものであるからです。
[7]地位と名誉のためのそれらの愛について、それは自己愛と同じものであり、正確には、自己愛からの支配する愛、プロプリウムの愛です。人間のプロプリウムはすべての悪です――ここから、人間はすべての悪の中に生まれ、彼の遺伝は悪以外の何ものでもない、と言われます。
人間の遺伝は、彼のプロプリウムであり、その中にいて、その中に自己愛を通して、特に、自己愛からの支配する愛を通してやって来ます。なぜなら、その愛の中にいる人間は、自分自身でないなら目を向けず、このように自分のプロプリウムの中に自分の思考と情愛を浸すからです。
ここから、自己愛には悪を行なう愛が内在しています。
その理由は、隣人を愛さないで、自分自身だけを愛するからです。自分自身だけを愛する者は、自分以外に他の者を、卑しい者のようにあるいは無価値な者のようにしか見ないで、彼らを自分自身と比べて軽蔑し、彼らに悪を加えることを何とも思いません。
[8]そのことから、自己愛からの支配する愛の中にいる者が、隣人をだますこと、隣人の妻と姦淫すること、隣人を中傷すること、彼に対して激怒して、死なすまでも復讐したいこと、また同じような他のものを何でもないと見なします。
このことを人間は、自己愛からの支配する愛以外の何ものでもない悪魔そのものから、悪魔と結合し、悪魔により導かれることから得ています。悪魔により、すなわち、地獄により導かれる者は、すべてのその悪の中に導かれます。そして、絶えず悪の快さによって導かれます。
ここから、地獄の中にいるすべての者は、あらゆる者に悪を行なうことを欲します。しかし、天界の中にいる者は、すべての者に善を行なうことを欲します。
その対立から、均衡の中のように、その中に人間がいて、自分自身を地獄へ、あるいは天界へ向けることができるような、中間にいることが生じます。自己愛の悪を好ましく思えば思うほど、それだけ自分自身を地獄へ向けます。しかし、それらを自分自身から遠ざければ遠ざけるほど、それだけ自分自身を天界へ向けます。
[9]私に、自己愛からの支配する愛の快さがどんなもので、どれほど大きいか感じることが与えられました。
私は原因を知るためにその中に入れられましたが、世の中にあるすべての快さにまさるようなものでした。最内部から最外部までの心全体の快さでした、けれども身体の中では、胸がふくらむような心地よさと愉快さとしか感じられませんでした。そしてまた、その快さから、泉からのようにすべての快さが、例えば、姦淫し、復讐し、欺き、中傷する快さが、全般的に悪を行なう快さが湧き出ることを感じることが与えられました。
同じく、どんな策略ででも他の者の財産を所有しようとする愛に内在する、またその愛から派生する欲望に内在する快さも感じました。しかしそれでも、自己愛と結合されていないなら、その段階の中にいません。
けれども、地位と富のためでなく、役立ちのための地位と富については、地位と富への愛ではなく、役立ちへの愛であって、地位と富は手段としてその者に仕えます。この愛は天界的です――しかし、これについて多くのことは続きの中で述べます。
[10]第三――二つのそれらの愛は互いの間で地獄と天界のように分離している
このことは、今、言われたことから明らかであり、それらに次のことを付加します――自己愛からの支配する愛の中にいるすべての者は、霊に関して地獄の中にいます、重要人物あるいは卑しい者であっても、だれでもその中にいます。その悪の中にいるすべての者は、悪のすべての愛の中にいて、それらを行なわなくても、それでも自分の霊の中で許されると信じています、ここから、地位と名誉が、そして法律の恐れが妨げない時、身体で行ないます――さらに、自己愛からの支配する愛は本質的に神に対し、したがって教会のものである神性に対し、そして特に主に対して、憎しみを隠しています。
もし神を認めるなら、このことを口だけで行ないます。もし教会の神的なものを認めるなら、名誉を失うことの恐れからそうしています。
その理由は、その愛は内部で主に対する憎しみを隠していて、内部で、神であることを欲する愛の中にいるからです、というのは、自分自身だけを礼拝し、崇拝するからです。
ここから、だれかがその愛を持つ者を、「彼には神的な知恵がある、世の神である」と言うほどにまで尊敬するなら、そのだれかを心から愛します。
[11]役立ちのために地位と富の愛は異なっています。この愛は天界的です、なぜなら、言われたように、隣人への愛と同じものであるからです。
役立ちによって善が意味されます。ここから、役立ちを行なうことによって、善を行なうことが意味されます。役立ちまたは善を行なうことによって、他の者に役立ち、仕えることが意味されます。
これらの者は、たとえ地位の中、富の中にいても、それでも、地位と富を役立ちを行なうための手段、このように、役立つためのまた仕えるための手段としてしか眺めません。
これらの者が、次の主のことばによって意味される者です、
あなたがたの間で、偉大になりたい者はだれでも、あなたがたの仕える者であるべきです。……最初の者でありたい者はだれでも、あなたがたのしもべであるべきです(マタイ20:26, 27)。
主から天界の中の支配をまかせられる者もこれらの者です。というのは、彼らに支配は役立ちまたは善を行なう手段、このように仕える手段であるから。役立ちまたは善が目的または愛である時、彼らが支配するのではなく、主が支配されます、なぜなら、すべての善はその方からであるからです。
[12]第四に――それらの愛の相違は、ほとんど人間に知られていない
このことは、地位と富にいる者は、役立ちもまた行ないます、しかし、大部分の者が自分自身のために役立ちを行なうのか、役立ちのために役立ちを行なうのか知らないからです。また、自己と世への愛の中にいない者よりもさらに、役立ちを行なう火と熱に自己と世への愛が内在するので、なおさらそのことを知りません。その者は名声のためにまたは利益のために役立ちを、このように自分自身のために行ないます。しかし、役立ちのために役立ちを、すなわち、善のために善を行なう者は、自分自身からでなく、主からそれを行ないます。
[13]それらの間の相違が人間によりほとんど知られることができない理由は、人間は、悪魔により導かれているのか、主により導かれているのか知らないからです。悪魔により導かれている者は、役立ちを自分自身と世のために行ないます、しかし、主により導かれている者は、役立ちを主と天界のために行ないます。主から役立ちを行なうすべての者は悪を罪として避けます、しかし、悪魔から役立ちを行なうすべての者は悪を罪として避けません。というのは、悪は悪魔であり、そして役立ちまたは善は主であるからです。
他のところからでなく、ここから相違が知られます。
二つとも、外なる形の中では似て見えます、しかし、内なる形の中ではまったく似ていません――一つは金のようですが、その中の内部はかなくそです。しかし、もう一つは金のようであって、その内部は純金です。また一つは作りものの果実のようであり、それは外なる形では木からの果実のように見えますが、それでも着色した蝋であり、その内部は、がらくたまたはアスファルトです。しかし、もう一つは快い味と香りのみごとな果実のようであり、その内部には種があります。