神の摂理 219
219 しかし、これらの小項目は一つずつ個別に説明され、確信されなければなりません。
第一――何が一時的なものか、何が永遠なものか
一時的なものは、自然に固有のものであり、ここから人間に固有のものであるそれらすべてのものです。
自然に固有なものは特に空間と時間であり、両方とも限度と限界をともなっています。人間に固有なものはここからであり、彼の固有の意志と固有の理解力に属するものであり、ここから彼の情愛と意志に属するもの、特に彼の思慮分別に属するものです。それらが、有限なもの、限度のあるものであることは、よく知られています。
けれども、永遠なものは、主に固有なものであり、またその方から人間に固有であるようなすべてのものです。
主の固有のものは、無限なものと永遠なもののすべてであり、このように時間のない、したがって、限度のない、終わりのないものです――それらは、無限なものと永遠なものと同様に、ここから人間に固有なもののようです。けれども、これらの何も人間のものではなく、人間のもとの主だけのものです。
[2]第二――人間は本質的に一時的なものであり、主は本質的に永遠なものである。ここから、人間からは一時的なものしか発出することができず、主からは永遠なものしか発出しない
人間は本質的に一時的なものであること、主は本質的に永遠なものであることは、前に言われました。
何らかのものは、それ自体の中にあるものからしか発出することができないので、人間からは一時的なもの以外に何らかのものは発出することができないこと、主からは永遠のもの以外に何らかのものは発出することができないことがいえます――というのは、有限なものから無限なものは発出することはできないから。発出することができる、と言ってしまうと矛盾です――けれども、それでも有限なものから無限なものが発出することができます、しかし、有限なものからでなく、それを通して無限なものから発出することができます。
逆にまた、無限なものから有限なものは発出することができません。発出することができると言ってしまうこともまた矛盾です。しかし、無限なものから有限なものが生み出されることができます、このことは発出することではなく、創造することです――それらの事柄について、『神の愛と知恵』の最初から最後までに見られます。それゆえ、主から、多くのものの中で人間のもとに生ずるように、有限なものが発出するなら、主からでなく、人間から発出しています。そのように見えるので、主により人間を通して発出している、と言うことができます。
[3]このことは次の主のことばによって説明されることができます、
あなたがたの会話は、「はい、はい」、「いいえ、いいえ」であるべきです。これらを越えるものは悪からです(マタイ5:37)。
第三の天界の中のすべての者はこのような話し方をします。というのは、彼らは、神的な事柄について決して、そのようであるかあるいはそのようでないか、と推論しません、本質的に主から、そのようであるかあるいはそのようでないか、見るからです。それゆえ、神的な事柄について、そのようであるかあるいはないか、と推論することは、推論する者がそれらを主から見ないで、自分自身から見たいからです。人間が自分自身から見ることは、悪です。
しかし、それでも、主は、人間が神的な事柄について、そのようであるかあるいはそのようでないことを見る目的のために、考え、話すだけでなく、それらについて推論することを欲します。そして、その思考、話し方または推理は、真理を見ることだけを目的として持つとき、主から人間のもとに存在すると言われることができます、しかし、真理を見、それを認めるまでは人間からです。
その間は、考えること、話すこと、推論することができるのは、主からだけです。というのは、このことは自主性と推理力と呼ばれる二つの能力からでき、それらの能力は主おひとりから人間にあるからです。
[4]第三――一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離し、永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させる
一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離することによって、一時的なものである人間が自分自身の一時的なものから永遠なものを分離することが意味されます――永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させることによって、永遠であられる主がご自分の中の永遠なものから一時的なものを分離することが意味されます。
先行するものの中で、人間との主の結合と、主との人間の相互の結合があることが示されています。しかし、主との人間の相互の結合は人間からではなく、主からです。なおまた、人間の意志は主の意志に背を向けています。すなわち、同じことですが、人間のプロプリウムの思慮分別は主の神的な摂理に背を向けています。
これらから、人間は自分の一時的なものから、主の永遠なものに自分自身から分離すること、しかし、主はご自分の永遠なものを人間の一時的なものに結合されること、すなわち、ご自分を人間に、人間をご自分に結合されることがいえます。
これらについて先行するものの中に多くのものが扱われたので、それらがさらに確認される必要はありません。
[5]第四――主は外観によって人間をご自分に結合される
というのは、人間が自分自身から隣人を愛すること、善を行なうこと、真理を話すことは外観であるからです。
これらは人間に彼自身からのように見えないなら、隣人を愛さず、善を行なわず、真理を話さず、このように主と結合されません。
しかし、主から愛、善と真理があるので、主が外観によって人間をご自分に結合されることは明らかです。
しかし、この外観について、人間との主の結合について、またその結合によって主との人間の相互の結合について、前に多く扱われています。
[6]第五――主は対応によって人間をご自分に結合される
このことは、みことばによってなされ、その文字どおりの意味は対応そのものから成り立っています。その意味によって、人間との主の結合があること、主との人間の相互の結合があることは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に最初から最後まで示されています。