カテゴリー

神の摂理 224

223◀︎目次▶︎225

224 内なるものが存在し、そのものから外なるものが存在するようになること、したがって、外的なものはその本質を内なるものから持つことを、だれが見ることができませんか?
外なるものは、内なるものからのその本質にしたがって見られることができることを、だれが経験から知りませんか?
というのは、このことは偽善者、おべっか使い、偽る者のもとで、はっきりと見られるから――人間は外なるものの中で自分でない人物を偽ることができます。というのは、喜劇役者と喜劇俳優者は、王、皇帝を、それどころか天使を、声、話し方、顔つき、振る舞いで、彼ら自身であるかのように描き出すことを知っているから。そのときそれでも道化師以外の者ではありません。
次のこともまた言われました。市民的なものまた道徳的なものの中と同様に霊的なものの中でも同様に人間はへつらい屋を演じることができるからです。そしてまた、多くの者が行なっていることが知られています。
[2]それで、言われたように、内なるものがその本質の中で地獄的なものであり、また外なるものがその形の中で霊的なものに見え、それでも外なるものが内なるものからその本質を得るとき、どこにその本質が外なるものの中に隠れているか質問するかもしれません。
振る舞いの中に、声・話し方・顔つきの中にも見られません、しかし、それでもそれら四つの中の内部に隠れているのです。
それらの中の内部に隠れていることは、霊界の中の同じものからはっきりと明らかです。というのは、人間が自然界から霊界にやって来るとき、そのことは死ぬときに生じますが、その時、身体とともに自分の外なるものを残し、そして自分の霊の中にたくわえられていた自分の内なるものを保持するから。またその時、もし彼の内なるものが地獄的であったなら、彼は悪魔のように、さらにまた世で生きたとき自分の霊に関してどんなであったかによって、〔そのように〕見えます。
すべての人間は身体とともに外的なものを残し、そして霊となるとき内なるものの中に入ることを、だれが認めませんか?
[3]これらに私は次のこともまた付加します。霊界の中に情愛とそこからの思考の伝達があり、そこから、だれも考えているようなことしか話すことができないことです。なおまたさらに、だれもがそこでは顔つきを変化させ、自分の情愛に似たものになり、それで、顔つきからもまた〔本人が〕どんなものであるか見られます。
時々、偽善者に考える以外に異なって話すことが許されますが、しかし、彼らの話しの声は彼らの内的な思考とまったく不一致なものに聞こえ、不一致から見分けられます。
ここから、内なるものが外なるものである声・話し方・顔つき・振る舞いの中に内的に隠れていて、このことは自然界の中の人間から知覚されませんが、しかし、霊界の中の天使からはっきりと知覚されることを明らかにすることができます。