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神の摂理 228

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228 それらを知らない人間は、だれもこのように聖なるものを冒涜しません。なぜなら、それらを知らない者は、それらを認めることも、その後、それらを否定することもできないからです。
それゆえ、キリスト教世界の外にいる者は、主について、またその方によるあがないと救いについて何らかのことを知らず、それを受け入れない時、それどころか、それに反して話す時、その聖なるものを冒涜しません。
ユダヤ人自身も、幼児期からそれを受け入れ、認めることを欲しないので、その聖なるものを冒涜しません。受け入れ、認め、その後、否定したなら異なりますが、それでもそのことが生ずるのはまれです。というのは、彼らからの多くの者はそれを外的に認め、それを内的に否定するからであり、偽善者も同様です。
しかし、彼らは聖なるものを冒涜的なものにそれらの混合によって冒涜するその者は、最初に受け入れ、認め、その後、逸れて、否定します。
[2]幼児期と少年期に受け入れ、認めたことは何ら問題となりません。このことはそれぞれのキリスト教徒に行なわれています。その時、信仰と仁愛に属するものを、推理力と自主性の何らかのものから、すなわち、意志からの理解力の中で受け入れ、認めたのではなく、単に記憶からまた教師への信頼から認めたからです。また、それらにしたがって生きるなら、盲目の服従からです。
しかし、人間が自分の推理力と自主性を用いるとき、そのことは成長し、若者になるように、引き続いて生じますが、その時、真理を認め、それにしたがって生き、その後、それを否定するなら、聖なるものを冒涜的なもので混ぜ、また前に言われたように、人間からそのような怪物になります。
しかし、もし人間が悪の中にいるなら、自分の推理力と自主性にいる間、その時から、すなわち、自分の責任で、青春時代まで、そしてその後、信仰の真理を認め、それにしたがって生き、その時、それらの中に人生の終わりまでとどまるなら、それを混ぜません。なぜなら、その時、主は以前の生活(いのち)の悪をその後の生活(いのち)の善から分離されるからです。悔い改めを行なうすべての者はこのようになります。
しかし、これらの多くのことについては続きの中で述べます。