神の摂理 230
230 聖なるものの冒涜は、十戒の第二の戒めの中の「あなたはあなたの神の名前を冒涜してはならない」によって意味されます。また冒涜されてはならないことは、「主の祈り」の中の「あなたの名前が聖別されますように」によって意味されます。
「神の名前」によって何が意味されるか、キリスト教世界の中のほとんどだれにも知られていません――その理由は、霊界の中の名前は自然界の中のようなものではないこと、しかし、それぞれの者が自分の愛また知恵がどんなものかにしたがって名づけられているか知られていないからです。というのは、ある者が他の者との社会または仲間の中にやって来ると直ぐに、そこに彼の性質にしたがって直ちに名前をつけられるからです。
命名は霊的な言語によって行なわれ、それは事柄のそれぞれに名前が与えられることができるようなものであり、そこのアルファベットの中のそれぞれの文字が一つの事柄を意味するので、人物の名前をつくる一つの単語に結合された多くの文字は、事柄の全状態を含みます。
このこともまた霊界での驚くべきことです。
[2]これらから、みことばの中の「神の名前」によって、神とその方の中にあり、その方から発出するすべての神性が意味されることが明らかです。みことばは発出する神性であるので、それは神の名前です。教会の霊的なものと呼ばれるすべての神的なものは、みことばからであるので、それらもまた神の名前です。
これらから十戒の第二の戒めによって何が意味されるか見られることができます、
あなたはあなたの神の名前を冒涜してはならない〔出エジプト記20:7〕。
また「主の祈り」の中の次の言葉によって、
あなたの名前が聖別されますように〔マタイ6:9〕。
両契約のみことばの中の多くの箇所の中に、神そして主の名前によって同様のものが意味されています。
(例えば、マタイ7:22, 10:22, 28:5, 20, 19:29, 21:9, 10, ヨハネ1:12, 2:23, 3:17, 18, 12:13, 28, 14:14-16, 16:23, 24, 26, 27, 17:6, 20:31)。
他にも旧約聖書の中の非常に多くの箇所にあります。
[3]この「名前」の意味を知る者は、次の主のことばによって何が意味されるか知ることができます――
だれでも預言者を預言者の名前の中で受け入れる者は、預言者の報酬を受けます。……だれでも正しい者を正しい者の名前の中で受け入れる者は、正しい者の報酬を受けます。だれでも弟子の名前の中でそれほどに、この小さい者の一人を冷たい水の飲み物を飲ませる者は……報酬を失いません(マタイ10:41, 42)。
「 預言者、正しい者、弟子の名前」によって、預言者、正しい者、弟子だけを理解する者は、そこに文字どおりの意味以外に他の意味を知りません。彼は、「 預言者の報酬」、「 正しい者の報酬」、「 弟子に与えた冷たい水の飲み物に対する報酬」が何かも知りません。そのときそれでも、「 名前」によって、「 預言者の報酬」によって、神的な真理の中にいる者の状態と幸福が意味され、「 正しい者の名前と報酬」によって神的な善の中にいる者の状態と幸福が意味され、弟子によって教会の霊的な何らかのものの中にいる者の状態が意味されます。「 冷たい水の飲み物」は真理の何らかのものです。
[4]愛と知恵の、すなわち、善と真理の状態がどんなものか、「名前」によって意味されることは、次の主のことばによっても明らかです――
門を通って入る者は羊の牧者です。この者に門番は開け、羊は彼の声を聞き、自分のものの羊を名前に関して呼び、それらを連れ出します(ヨハネ10:2, 3)。
「 羊を名前に関して呼ぶこと」は、仁愛の善の中にいる者をだれでも、彼の愛と善の状態にしたがって、教えることと導くことです。
「 門」によって、そこの第9節から明らかなように、主が意味されます。
わたしは門です、もしだれかがわたしを通って入ったなら、救われます。
これらから、だれかが救われることができるために、主ご自身に近づかなくてはならないこと、また、その方に近づく者は「 羊の牧者」であり、その方に近づかない者は、その章の第一節に言われているように、「 泥棒と強盗」であることが明らかです。