神の摂理 235
235 神的な摂理をまったく認めない者は、自分の心の中で神を認めていないで、神の代わりに自然を、神的な摂理の代わりに人間の思慮分別を認めます。
このようであることは、人間は考えることと異なって考えること、そしてまた話すことと異なって話すことができるので、見られません。内的な自分自身から異なって考え、話すことができ、外的な自分自身からそれと異なってできます――扉のどちらの側にも回転することができるちょうつがいのようであり、それは、入る時と出る時で〔回転方向が〕異なります。船長が帆を広げて船をどちらの側にも向きを変えることができるその帆のようです。
人間の思慮分別を自分自身に確信した者は、見、聞き、読むどんな場合も、それらが思考の中にある時、天界から何も受けず、自分自身だけから受けるので〔自分の思慮分別以外の〕他のものを認めず、それどころかできもせず、そこまでも神的な摂理を否定します。外観と〔感覚の〕欺きから結論するので、他のものを見ず、そのようであることを誓うことができます。
さらにまた、自然だけを認める者は、神的な摂理の擁護者に対して、その者が祭司でないなら、怒るかもしれません。祭司の場合は、神的な摂理とは教えに属すものまたは職務上のものである、と見なします。