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神の摂理 252

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252 (4)自分自身を崇拝する者と自然を崇拝する者は、自分の知覚にしたがって、勝利は思慮分別する側にあって、時々、正義の側になく、さらにまた、統治者が正直であるかあるいは不正直であるにしても何も生じない、と考えるとき、神的な摂理に反して確信する
勝利が思慮分別の側にあって、時々、公正の側にないように見られることは、人間が外観から判断し、そして、一方の側に他方の側よりもさらに好意を抱き、好意を抱く者のものを推論によって確信することができるからです。また、直前の先行するものの中で言われたように、公平の原因が天界の中では霊的であり、世の中で自然的であり、過去と同時に未来を結びつきの事柄によって結合されていること知らないで、主だけに知られているからです。
[2]統治者が正直であるかあるいは不正直であるにしても何も生じないことは、前に確認された同じ原因からです(250番)。それは悪い者も善い者と等しく役立ちを行なうこと、悪い者は自分の火から善い者よりもさらに熱烈に行なうことです。特に、戦争では、悪い者は善い者よりも策略を狡猾に、悪賢しくたくらみ、また栄光への愛から、敵と知り、敵と宣言する者を殺害し、略奪することの快楽の中にいるからです。善い者は守ろうとする思慮分別や熱意の中だけにいて、侵略しようとする何らかの思慮分別や熱意の中にいることはまれです。
このことは、地獄の霊と天界の天使に同様であり、地獄の霊は襲い、天界の天使は守ります。
これらから、それぞれの者に自分の祖国と仲間を敵の侵略者から守ることが、さらにまた悪い者の統治者によっても許されること、しかし、理由なしに自国の敵とすることは許されないことが結論されます――栄光だけを理由とすることは、自己愛であるので、本質的に悪魔のものです。