カテゴリー

神の摂理 276

275◀︎目次▶︎277

276 しかし、隣人愛が自己愛へ逸れ、この愛が大きくなった時、人間の愛は動物の愛へ逸れました。人間は、身体で感じるものを考えることができ、あるものを他のものから理性的に区別し、教えられ、そして市民的で道徳的な人間に、最後に霊的な人間になることができるという相違とともに、人間から獣になりました。
なぜなら、言われたように、人間に霊的なものがあり、それによって獣から区別されるからです。というのは、それによって、何が市民的な悪と善か、なおまた何が道徳的な悪と善か、そしてまた、もし欲するなら、何が霊的な悪と善か知ることができるからです。
隣人愛が自己愛に逸れた時、人間はもはや知識と知性の光の中でなく、無知の暗黒の中に生まれましたが、それは、身体の感覚による認識力と呼ばれるいのちの最外部の面の中に生まれ、それにより、常に霊的なものが附随して、自然的な心の内的なものの中に教えを通して導き入れられることができるからです。
身体の感覚による認識力と呼ばれるいのちの最外部の中に、それゆえ、無知の暗黒の中に生まれる理由は続くものの中に見られます。
[2]隣人愛と自己愛が正反対の愛であることは、それぞれの者が知ることができます。というのは、隣人愛は自分自身からすべての者がよいようにと欲しますが、自己愛はすべての者から自分自身だけがよいようにと欲するからです。隣人はすべての者に仕えることを欲し、自己愛はすべての者が自分に仕えるようにと欲します。隣人愛はすべての者を自分の兄弟や友として眺めます、けれども、自己愛はすべての者を自分の召使いとして眺め、召使いとして行動しないなら、自分の敵として眺めます。1言でいえば、自分自身だけを眺め、他の者をほとんど人間として眺めないで、その者を心では自分の馬や犬よりも低く評価します。彼らをこのように低く見るので、彼らに悪いことすることもまた何とも思いません。憎しみと復讐、姦淫と淫行、盗みと欺瞞、うそと中傷、凶暴と残酷、またその他同様なものはここからです。
これらが悪であり、人間は生来からそれらの中にいます。
それらが救う目的のために許されていることは、次の順序で示されるべきです――

(1)すべての人間は悪の中にいる、改心されるためには悪から導き出されなくてはならない。
(2)悪は、見られないなら、遠ざけられることができない。
(3)悪は、遠ざけられれば遠ざけられるほど、それだけ許される。
(4)このように、悪の許しは目的のために、救いのためにある。