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神の摂理 280

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280 罪は赦されるとき、遠ざけられる、とすることもまた現代の誤りです。
聖餐によって自分自身に罪が赦されていると信じる者は、その誤りの中にいます、それでもその罪を自分自身から悔い改めによって遠ざけていません。さらに、信仰のみによって、他にまた教皇の特免状によって救われることを信じる者もまたその誤りの中にいます――すべてのそれらの者は、直接の慈悲を、瞬間の救いを信じています。
しかし、このことがひっくり返されるとき〝真理〟が生じます、すなわち、罪が遠ざけられるとき、さらにまた許されることです。というのは、悔い改めは赦しに先行し、悔い改めなしに決して赦しはないからです――それゆえ、主は弟子たちに次のように命じられました、

らは、罪の赦しへ向けて悔い改めを宣べ伝えた(ルカ24:47)。
ヨハネは……罪の赦し へ向けて悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた(ルカ3:3)。

主はすべての者にその罪を赦され、責められず、帰されません。しかし、それでも、ご自分の神的な摂理にしたがってでないなら、その罪を取り去ることがおできなりません。なぜなら、ペトロが兄弟の罪の中に対して、「その度ごとに〔許さなければなりませんか〕、七度ですか」と質問したときに〔そのとき主は〕言われているから、

わたしはあなたに七度までとは言いません。しかし、七度だけでなく、七度〔を〕七十回〔許します〕(マタイ18:21, 22)。

慈悲そのものであられる主が〔そのとき〕何を〔なされ〕ないか?