神の摂理 294
294 前に、だれも自分自身から考えず、他の者から、また他のすべての者も自分自身からでなく、主による天界からの流入から考えることをある者が納得させられ、驚嘆の中にいたとき、〔第一〕悪を行なうことは、このように過失とならないこと、なおまた〔第二〕このように悪は主からであるように見られること、そしてまた〔第三〕すべての者がこのように異なって考えるように、主だけが行なうことができることは理解できないこと、が言われました(289番)。
そこで、これらの三つは、結果から結果だけを考え、原因から結果を考えない者のもとの思考の中に流入することができないので、それらが取り上げられ、原因から示されることが必要です。
[2]第一――悪を行なうことは、このように過失とならない
というのは、もし人間が考えるすべてのものが、他の者から流入するなら、それらの流入するものから存在するように見えるからです。しかし、それでも、過失そのものは受け入れる者のもとにあります、なぜなら、自分のものとして受け入れ、他のことは知らないし、他のことを知ろうともしないからです――というのは、だれもが自分自身であること、自分自身から導かれること、特に自分自身から考え、欲することを欲するからです。というのは、このことが自由そのものであり、プロプリウム(自己固有のもの)のように見え、そのプロプリウムの中にすべての人間がいるから。それゆえ、考え、意志するものが他の者から流入するものであることを知るなら、自分自身が縛られ、囚われ、もはや自分自身の支配のもとにない者であるように思え、このように自分のいのちの快さは失われ、ついには人間性そのものが失われるからです。
[3]このようであることを、私はしばしば見て、確信しました。
ある者に、他の者から導かれていることを知覚し、感じることが与えられました。その時、怒りで激怒し、心で抑えることができないようにもなりました。
「欲するように考え、考えるように意志することが許されないよりも、むしろ地獄の中で縛られて保たれることを欲する」と言いました。
「このことが許されないことは、身体に関して縛られるよりもきびしく、耐えがたいものであり、自分のいのちに関して縛られることである」と呼びました。考え、意志するように話し、行なうことが許されないことを縛られることとは呼びません。話し、行なうことから成り立っている市民的で道徳的な生活の快さが、そのことが抑制し、同時にいわば和らげるからです。
[4]そこで、人間は、〔自分の〕思考へ他の者から導かれていることを知ることを欲せず、しかし、自分自身から考えることを欲し、このこともまた信じるので、自分自身が過失の中にいないし、考えているものを自分自身で考えることを愛するかぎり、過失を退けることもできない、ということになります。そのことを愛さないなら、自分自身をそれらとの結びつきから解きます。
悪であることを知るとき、このことが生じ、そしてそれゆえ、それを避けること、それらから離れることを欲します。
さらにまたその時、彼は主により悪の中にある社会から連れ出され、その悪の中にない社会の中へ移されます。
けれども、悪を知り、それを避けないなら、その時、彼に過失が着せられ、その悪の罪が生じます。
それゆえ、人間が自分自身から行なうと信じるものはどんなものでも、人間から生じ、主からではないことが言えます。
[5]第二――このように、 悪は主からであるように見られる
このことは、前に示されていること「主から流入する善が地獄の中の悪に、そして真理が地獄の中の虚偽に変えられる」(288番)ことからの結論のように考えることができます。
しかし、悪と虚偽は善と真理から、このように主からでないこと、しかし、悪と虚偽の中にあって、それをゆがめ、ひっくり返し、受け入れる主体と対象からであることを、だれが見ることができませんか?さらにまたそのことは前に十分に示されています(292番)。
けれども、人間のもとの悪と虚偽がどこからかは、これまでのものの中で十分に示されています。
さらにまた霊界の中で、主は悪い者のもとの悪を遠ざけ、それらに代わって善をもたらし、このように全地獄を天界に移し、すべての者を救うことができる信じた者に、そのことを経験させることが行なわれました。しかし、そのことが不可能であることは、この著作の終わりに、瞬間の救いについて、直接の慈悲について扱われているところに見られます。
[6]第三――すべての者がこのように異なって考えるように、主だけが行なうことができることは理解できない
主の神的な愛は無限であり、そしてその方の神的な知恵は無限であり、そして愛の無限なものと知恵の無限なものが主から発出し、それらは天界の中のすべての者のもとに、ここから地獄の中のすべての者のもとに、また両方から世の中のすべての者のもとに流入します。それゆえ、ある者に考え、意志することが欠けることはありえません、なぜなら、無限なものはすべてのものにとって無限であるからです。
主から発出するそれらの無限なものは、普遍的に流入するだけでなく、最も個々のものにもまた流入します。なぜなら、神性は最も個々のものから普遍的であり、最も個々のものの神性は、それらは「普遍的なもの」と呼ばれ、主の最も個々のものもまた無限であるからです。
これらから、主だけがそれぞれの者に彼の性質にしたがって、考え、意志することを、ご自分の摂理の法則にしたがって行なわれることを明らかにすることができます。
主の中にあり、主から発出するすべてのものが無限であることは、前に(46-69番)、そしてまた著作『神の愛と知恵』(17-22番)の中に示されています。