神の摂理 297
297 (3)悪い者は、プロプリウムの知性がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と信じているかぎり、主により悪から導き出され、善の中へ導かれることがまったくできない
人間は、これまたはそれが公共の善に反している、役立ちに反している、また国の法律また国と国の間の法律に反していると考えるかぎり、自分自身を悪から導き出すことができるように見えます。
このことを、善い者も悪い者も、出生または実践から、内部に自分自身の中で分析的にまた理性的に明瞭に考えることができるような者であるかぎり、できます――しかし、やはりそれでもなお、自分自身を悪から導き出すことはできません。
その理由は、前のあちこちに示されているように、物事を抽象的にもまた理解する能力、知覚する能力が悪い者にも善い者にもそれぞれの者に、主から与えられているからです。しかし、それでも人間はそれら〔の能力〕からでは自分自身を悪から連れ出すことはできません――というのは、悪は意志に属しており、理解力は照らし、教える光とともにあるときだけを除いて、意志の中に流入しないからです。意志の熱が、すなわち、人間のいのちの愛が悪の欲望から熱いなら、その時、善の情愛に関して冷たくなります。それゆえ、〔意志の中に〕受け入れないで、退けるか、消すか、あるいは考案したある虚偽によって悪に変えます。
このことは夏の光のように明るさの等しい冬の光が、冷たい木に注ぐときと同様なものなります。しかし、これらは次の順序の中でさらによく見られることができます――
(1)プロプリウムの知性は、意志が悪の中にあるとき虚偽しか見ない、また何らかのものを見ることを欲しないし、できない。
(2)プロプリウムの知性が真理を見るなら、その時、背を向けるかあるいはそれを虚偽化する。
(3)神的な摂理は絶えず人間が真理を見るようにし、それを知覚し、受け入れる情愛もまた与える。
(4)人間はそのことによって自分自身からでなく、主により、悪から導き出される。