神の摂理 312
312 (2)人間はプロプリウムの思慮分別から、すべての善と真理は、同様にすべての悪と虚偽は、自分自身から、また自分自身の中にあることを自分自身に説きつけ、自分自身のもとで確信する
自然的な善と真理それと霊的な善と真理の間の類推によって論証を行ないます。
質問されます、「目で見る真理と善は何か?美しいものと呼ばれるものに真理が、快いものと呼ばれるものに善があるのではないか?というのは、快さは美しいものを見ることから感じられるから。聞くことでの善と真理は何か?そこに調和したものと呼ばれるものに真理が、そこに楽しさと呼ばれるものに善があるのではないか?というのは、楽しさは調和したものを聞くことから感じられるから」。
他の感覚でも同様です。
ここから、何が自然的な真理と善か明らかです。
そこで、何が霊的な真理と善か熟考してみなさい。
霊的な真理は、霊的な事柄や対象からの美しいものや調和するものでないなら何ですか?霊的な善は、それらの美しいものまたは調和するものを知覚した快さと楽しさでないなら何ですか?
[2]さて、あるものと他のものについて比べて何か言われることができないか、見られるでしょう。すなわち、自然的なもの比べて霊的なものについてです。
自然的なものについて、美しいものと快いものが対象から目の中に、調和するものと楽しいものが楽器から耳の中に流入することが言われます。
心の有機的な実体の中に何か〔相違が〕ありますか?
霊的なものについては、それらが内在すると言われ、自然的なものについては、それらが流入すると言われます。しかし、「なぜ流入するのか」と言われ、質問されるなら、「隔たりが見られるから」と答えることしかできません。また、「なぜ内在すると言われるのか」と質問されるなら、「隔たりが見られないから」と答えることしかできません――したがって、人間が見、聞くものと比べて、考え、知覚するものについて何らかのものが信じられ、それらをつくるものは、隔たりの外観です。
しかし、自然的なものが隔たり(距離)の中にあるようには霊的なものが隔たり(距離)の中にないことが知られる時、このことは倒壊します。
太陽と月について、またはローマとコンスタンティノープルについて考えなさい――それらは思考が視覚または聴覚を通して事実の経験に結合されていないかぎり、距離感のない思考の中に存在するのではありませんか?
なぜ、あなたは自分自身に、思考の中に距離(隔たり)は見られないので、善と真理は、そのようにまた、悪と虚偽はそこにあって流入しない、と説きつけようとするのですか?
[3]私はこれらに霊界の中で普通の経験を言い足します。
ある霊は自分の思考と情愛を他の霊の中に注ぎ込むことができ、それが自分の思考と情愛のプロプリウム(固有のもの)であるとしか知りません。このことは、そこでは他の者から考えること、他の者の中で考えることと呼ばれます。
このことを、私は千回も見、そしてまた、百回も行ないました。それでもなお、隔たりの外観ははっきりしていました。
しかし、それらの思考と情愛をもたらした他の者がいたことが知られると直ぐに、彼らは憤慨し、身を背けました。それでも隔たりは外なる視覚、すなわち、目の中のように示されないなら、内なる視覚、すなわち、思考の中に見られないことを認め、ここから流入すると信じられています。
[4]これに私は自分の日々の経験を付け加えます。
悪霊がしばしば私の思考の中に悪と虚偽を持ち込み、それらは私のもとで、私の中に、私から存在したように、すなわち、私自身がそれらを考えたように見られました。しかし、私は悪と虚偽であったことを知ったので、私はだれがそれらを持ち込んだか調べ、そしてそれがあばかれ、追い払われました。彼らは私から非常に隔たった中にいました。
これらから、すべての悪はその虚偽とともに地獄から流入し、そしてすべての善はその真理とともに主から流入すること、両方とも人間の中にあるように見えることを明らかにすることができます。