神の摂理 314
314 プロプリウムの知性から愚鈍となった者がどんなものであるか、内的な判断の事柄における彼らの妄想から明らかにすることができます。流入・思考・いのちについて例とします。
「流入」について、彼らは、「目の視覚が心の内なる視覚である理解力の中に流入する、耳の聴覚が内なる聴覚の中に、それもまた理解力ですが、その中に流入する」と逆に考えています。意志からの理解力が目の中と耳の中に流入すること、またそれらを感覚のものだけとしないで、自然界の中で自分の道具のようにそれらを用いることを認めません。
しかし、このことは外観にしたがっていないので、「自然的なものは霊的なものの中に流入しない、しかし、霊的なものが自然的なものの中に流入する」とだけ言われるなら、このことを認めません。そしてその時、それでも、「さらに純粋な自然的なものでないなら、霊的なものとは何か?」なおまた、「もし目が何らかの美しいものを見、耳が何らかの調和するものを聞くなら、理解力と意志である心は、喜ぶように見えるではないか?」と考えています。目はそれ自体からは見ず、舌もそれ自体からは味わわず、鼻もそれ自体からは嗅がず、皮膚もそれ自体から感じないことを知りません。それらを感覚で知覚するものは人間の心または霊であり、それがどんなものかにしたがってその感覚から働きかけられています。しかしそれでも、人間の心または霊はそれらをそれ自体からは感じないで、主から感じており、これと異なって考えることは外観からであり、もし〔そのことが〕確信されるなら、〔それは感覚の〕欺きからです。
[2]「思考」について、彼らは、「空気の中の何らかの変化物であり、対象にしたがって変化し、耕されるにしたがって増大されるものである、したがって思考の観念は空気中に見られる流星のような想像の産物であり、記憶は刻みつけられる板である」と言います。視覚と聴覚が有機的な実体の中にあるように、それと等しく、思考が純粋な有機的な実体の中にあることを知りません。
脳だけでも眺めてみなさい、するとそれがこのような実体(物質)で満ちているのが見られます――それらを傷つけてみなさい、するとあなたは気が狂います、そしてそれらを破壊してみなさい、するとあなたは死にます。
けれども、何が思考か、また何が記憶かは、前に見られます(279番末尾)。
[3]「いのち」については、何らかの自然の活動であり、生きている身体がそれ自体を有機的に動かすように、それ自体をいろいろな方法で感じさせることを行なうこと以外に、何も知りません。
「そのように自然は生きています」と言われるなら、このことを否定し、「自然が生きることを与える」とします。
「身体が死ぬとき、その時、いのちは消散させられませんか?」と言われるなら、「いのちは霊魂と呼ばれる空気の小部分の中に残る」と答えます。
「そのとき、神とは何ですか?それはいのちそのものではありませんか?」と言われるなら、これに関しては黙り、考えていることを言い表わそうとしません。
「あなたがたは神的な愛と神的な知恵がいのちそのものであって欲しいのですね?」と言われるなら、「愛とは何か、知恵とは何か?」と答えます。
なぜなら、自分の欺きの中でこれらが何か、神が何かも見ないからです。
これらのことは、すべてのものを外観からまたここからの欺きから推論したという理由で、人間がプロプリウムの思慮からどのように愚鈍とされるか見られるために、提示されました。
〔初版に315番はありません〕